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山口県の史跡と風景巡り~歴史の香り漂う名所~ 大内館跡<龍福寺>(山口市)

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2024年1月にThe New York Times(ニューヨーク・タイムズ)で発表された「2024年に行くべき52カ所」に日本から唯一、”山口市”が選出されました。

山口県内の史跡紹介記事一覧

山口県内の史跡紹介

山口県内に数多ある歴史的名所についてのレポート

今回は山口市内にある「史跡・大内館跡」について紹介します。

南北朝時代に長門・周防国の守護として活躍した第24代大内家当主の大内弘世。この方がいたからこそ現在の山口市があるといっても過言ではないかもしれません。

弘世は応永の乱で討死した25代義弘やその後を継いで供養塔(瑠璃光寺五重塔)を建てた26代盛見の父親です。1360年頃に現在の山口市に拠点を移し今に至っているとのこと。

激しい戦を勝ち抜き周防と長門の統一を果たした大内弘世は、1363年に足利家第2代将軍の義詮に謁見するため京に上洛しました。この時に京の町並みを見て「山口と地形が似ている」とインスピレーションを受け、「山口を”西の京”にする!」と一大決心。帰国後、京の町を模した町づくりに着手したと云われています。有名な文化人も招き入れ華やかな町へと変貌を遂げ経済も発展していきました。

以降約200年間、歴代の大内氏は山口で政務を取り仕切り西日本一帯の政治経済の中心として栄えることになります(大内文化)。その礎を作った大内弘世、この方あってこその山口市なのだと改めて思い知らされますね。

大内氏の館の周りには現在も「京」を匂わせる名称や地形を見ることができます。

山口県の史跡と風景巡り 大内館跡<龍福寺>(山口市)

「西の京」と呼ばれ独自の文化を発展させた大内氏の館の敷地は大変広大で、現在に至るまで様々な遺跡が発掘されています。総称して「大内氏遺跡」と呼ばれており、昭和34年に国指定史跡として登録されました。

龍福寺

24代当主・大内弘世が居を構えた館があった場所には現在「龍福寺」が建立されています。

もともと龍福寺は第12代当主の大内満盛が開祖となり別の場所に建立されていたお寺でしたが、1551年に勃発した大寧寺の変の戦火を浴びて焼失してしまいました。そののち、1557年に後奈良天皇の綸旨を受けた毛利隆元(元就の嫡男)を開祖として大内館跡地に建立され今に至っています。この戦によって自害へと追い込まれてしまった大内義隆の菩提寺として再興したのでした。ちなみに、義隆は隆元の養父に当たります。

ところが1881年に火事に巻き込まれ再び焼失。その2年後の1883年に大内氏の氏寺でもあった「氷上山興隆寺」(創建はなんと推古天皇の御世だった813年だとか!)の釈迦堂を現在の場所に移築しそれを本堂と定めました。1954年に国の重要文化財に指定されています。

明治期の移築に際して様々な改良が加えられていたとのことですが、老朽化を受けて2006年から約6年間かけて室町時代の建築物として復元・修復工事が行われました。

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大内義興公「馬上展望」像

龍福寺資料館の入口にあります。躍動感あふれる彫像でめっちゃカッコイイ!かなり目立つと思うので訪れた際にはぜひチェックしていただきたい。

大内氏の勢力を最高潮まで持って行ったともいえるのが第30代・義興です。当時の室町将軍(足利義稙)よりも軍事力が上回っていたと伝わるほどの勇将として知られています。

ちなみに、資料館へは時間の関係で入ることができませんでした(汗)。拝観料が安い割には見応え十分だそうなのでいつか訪れてみたいです。

宝現霊社

大内氏の祖である琳聖太子から第31代・大内義隆までの歴代大内家当主をまつる祠。龍福寺の鎮守として境内に建てられています。現在の社殿は江戸時代中期のものだそうで、250年以上前の建築物になるとのこと!歴史を感じます。

豊後岩

大内文化が花開いていた頃、大内館には多くの文化人が訪れていました。その人等をもてなすために豪華な庭園が造られたそうな。その折に備後の国(現在の広島県福山市あたり)から運び込まれた岩がわずかにこの地に残されています。
案内看板によれば、「運び込まれた岩たちは雨の夜に備後へ帰りたいと泣いていた」という逸話が残っているとのこと。

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大内義隆主従の供養塔

2000年に大内義隆450回忌を迎えたことに合わせて義隆主従の供養塔が建立されました。義隆の墓地は長門市の大寧寺にあるそうで、正面にある宝篋印塔はそれを模したものになっているそう。左奥にある十三塔は義隆に従って戦で命を落とした忠臣たちの供養塔になります。

1551年、重臣だった陶晴賢が謀反を起こし義隆主従は館を追われ長門の天寧寺に逃げ込みましたが、結局は自刃に追い込まれ命を落としてしまいました。これにより第31代まで続き栄華を誇った大内家は滅亡することになります。

境内には自刃の前に詠んだ義隆の辞世の句碑があります。「敵も味方も人の命は儚いものだ」という意味がなんとも切ないです…。

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大内氏館跡 池泉庭園

1978年からの発掘調査によって大内館には少なくとも3つの庭園があったことが判明しました。そのうち1992年から93年の間に発見されたのが池泉庭園です。

1400年代後期から大内氏滅亡の1500年代中期まで存在し、池の広さは約490㎡のひょうたん型で、中島もあったと考えられているとのこと。

庭園の周辺からは様々な遺構も発見されています。

井戸跡からは金箔を施した京風の皿が発掘されたそうです。当時の「西の京」として隆盛を誇った大内文化がしのばれますね。

また、現在の居住跡地の外側にも遺構を見ることができます。

これらのうち、石組溝の一部以外は最近復元したもので当時の面影はあまり感じられません(汗)。

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枯山水庭園

1500年前半の大内義隆の時代に作られたと考えられる枯山水庭園です。1500年代中期に火災により焼失したことで庭園の機能を失いそのまま廃止されてしまった歴史があるそうな…。

発掘の結果、焼失された割には割かしよく残っていたとのことでその一部が復元されました。目に見える石は当時のものをそのまま露出しているとのこと。抜けている箇所にある石も大内文化時代のものを強いているそうです。
少しこじんまりとした雰囲気でしたが、当時の面影を残す貴重な庭園跡で見応えがありました。

アクセス

駐車場もあり綺麗に整備されています(40台ほど)。

公共交通機関で訪れる場合は、JR新山口駅から路線バスでだいたい20分強くらい。最寄り駅は「県庁前」でそこから徒歩でだいたい10分程になります。 JR山口駅からはコミュニティバスがあるので、それに乗ると10分弱くらいで着きます(最寄り駅は堅小路)。ただ、バスの本数は少ないので事前のチェックをお願いします。

龍福寺含め大内館跡の見学は年中無休拝観料もなしです。ただし、資料館のみ9時~17時で大人200円、小人150円がかかります。

余談ですが…、私は山口在住時にこの寺の近くの医者に通ってました(苦笑)。

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