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「鎌倉殿の13人」ゆかりの地レポート -仁田忠常・比企尼・北条宗時-

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2022年度大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。ドラマとしては個人的に好きなテイストではないのですが(汗)鎌倉時代前後が取り上げられ注目されていることには非常に大きな関心を寄せています。

GW期間中に大河に出演した人物ゆかりの地をいくつか訪ねることができたので、紹介していきたいと思います。今回は、静岡県伊豆に縁のある人物3人のお墓について。

『鎌倉殿の13人』ゆかりの地レポ一覧

仁田忠常の墓

大河ドラマ放送開始時からちょいちょい登場している仁田忠常。「鎌倉殿~」ではお笑いコンビ・ティモンディの高岸宏行さんが演じています。

最初はどうもセリフ回しなどに違和感が拭えませんでしたが、ここ最近は少しシリアスモードになってきて見応えが出てきたように思います。初めてのお芝居とのことなので、最後まで頑張ってほしいです。

アクセス

広い通りから側道に入った住宅地の一角に墓地があります。場所をチェックしておかないとけっこう分かりづらいかも(汗)。

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入口もちょっと躊躇われるような感じで…w、恐る恐る門をくぐっていった先に 仁田忠常のお墓がありました。

案内の矢印看板があってよかった。これがなければスルーしてしまうところかも(汗汗)。ちなみにこの看板、昨年高岸さんが訪れた際に実際に書かれたものとのことです。

門をくぐった先が少し広い敷地になっていて、奥の方に仁田忠常、忠時、忠正兄弟のお墓がひっそり静かにたたずんでいました。かつてこの場所に屋敷もあったらしい。

真ん中の塔が仁田忠常のお墓だそうです。向かって右が忠時、左が忠正とのこと。

忠常の素性は謎が多いようで、両親が誰だったかもわかっていないとのこと。記録に名前が出てくるのは源頼朝が伊豆から挙兵した「石橋山の合戦」からだそうなので、かなり古くから頼朝の戦に関わっていた人物ということは分かります。
その後も源平の戦や奥州合戦にも参戦。大河では怪しい動きを見せていた一条忠頼をバッサリ斬り捨てる非情な一面をみせていたのが印象的でした。褒美は特にもらっていないそうですが、頼朝からの信頼はかなり厚かったことが伺えるのだとか(忠常が大病したときに見舞ってくれたこともあるらしい)。

忠常の有名なエピソードの中に「富士の巻狩り」というのがあるそうな。頼朝による御家人たちを連れた大規模な狩りイベントで忠常は手負いの大きなイノシシを仕留めたとのこと。場所は現在の朝霧高原あたりだそうです。
この狩りの最中に「曽我兄弟の仇討ち」事件が発生。ここに忠常も関わっていたという記録が。「曽我兄弟」の件は本になったり歌舞伎などのモチーフにもされるほど有名な話なのでドラマの中でも登場すると思います(工藤祐経が幼い兄弟に石投げられるシーンが出てきたりしてますしね)。

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曽我兄弟の祖父である祐親(ドラマでは浅野和之さんが演じていました)から荘園を取り上げられたうえ妻とも引き裂かれた工藤祐経は、恨みを募らせ1176年に襲撃を企てました。しかし祐親を討つことができず、その傍にいた息子の河津三郎祐泰が身代わりのような形で命を落とすことになってしまう。この祐泰の二人の息子が曽我十郎祐成五郎時致兄弟でした。
1193年、工藤祐経の宿所に侵入した曽我兄弟は親の仇を果たします。しかし、騒ぎを聞いてすぐに駆け付けた御家人に取り囲まれてしまい二人とも呆気なく討ち取られてしまいました。

忠常は曽我兄弟の兄・祐成を討ち取った人物として記録されているそうです。

頼朝亡き後も2代将軍・頼家の信頼を得ていたという仁田忠常(頼家の嫡男の乳母父も任されていたほど)。ところが、1203年の「比企の乱」をきっかけに運命が暗転してしまうことに。

頼家が大病したタイミングで北条時政の命により比企能員らを討ち取りますが、回復した頼家がこれに激怒して時政追討の命を下すことに。しかし忠常はそれに従うことなく恩賞をもらうために時政邸へ出向いてしまった(汗汗)。酒まで飲んでいて帰宅が遅くなったことで、仁田一族は「忠常が時政にやられてしまったのでは」と勘違い。怒りの矛先を義時に向け彼が滞在していた鎌倉御所を襲ったことで刃傷沙汰に。
騒動を知った忠常は慌てて御所に駆けつけようとしましたが、その途中で呆気なく討ち取られてしまう…。弟の忠正もこの事件で命を落としました。

大河では第32回で忠常の顛末が描かれました。ドラマでは頼家と北条との板挟みに苦しんだ挙句に突然自分で命を絶ったという展開に。義時の館を訪れたっていう話もちょこっと出てきたけど、ドラマにはあまり影響しない感じでしたね(汗)。なんだかちょっと呆気なくて気の毒だったかも。

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比企尼の供養塔(高源寺)

高源寺は800年頃に弘法大師が開いたお寺で、比企尼がこの近くに居を構えていたと言われているそうです。一度は山火事で焼けてしまったようですが、源頼朝が1190年に再興したと伝わっています。それまでは「長久寺」という名前でしたが、最高をきっかけに源氏の一文字を取って「高源寺」と名付けられたとのこと。

アクセス

ゴルフ場の脇道を通っていくので、本当にこの道で合っているのかと不安になることも(汗)。ゴルフ場を抜けてさらに少し奥まった山の中にお寺がありました。静かで風情のある素敵な場所でした。駐車場もあります。

寺へ向かう道の近くに流れている冷川は北条時政の嫡男・宗時が討たれた場所ではないかとも言われているそうな…。

ちなみに、高源寺さんの敷地では可愛いポニーの「ムーミン」さんがのんびり暮らしていて癒されました(5月5日で31歳になったそうです!おめでとう~~)

公式インスタによると猫ちゃんも数匹いるらしい。今回は時間がなくてあまり多く滞在できなかったのですが、機会があればもう少しゆっくり訪れてみたいです。

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高源寺は源頼朝が比企尼の計らいによって伊豆に流されていた僧・文覚らと源氏再興のための密儀を行った場所として知られているようです。挙兵を決断した頼朝はこの地を軍勢の集合場所に決めたと伝わることから「軍勢ぞろいの地」とも呼ばれています。石橋山の戦いも高源寺から出立したのでしょう。

本堂前の風情のある鐘楼門をくぐり石畳の道を少し進んでいったところに比企尼の宝篋印塔がひっそり佇んでいました。

比企尼は伊豆へ流された源頼朝の乳母を務めた人で、約20年もの間献身的に頼朝を支援したと言われているそうな。また、頼朝の弟にあたる範頼も庇護したそうですから、比企尼がいなければ平家追討は実現しなかったかもしれないとも思えてしまいますね。
ちなみに、比企尼は範頼が謀反の疑いを受け修善寺に流された後に範頼の子供の助命嘆願を行い命を救ったという話もあるらしい。

今回の大河ドラマでは草笛光子さんが比企尼を演じていらっしゃいました。第32回で頼家の息子・善哉(後の公暁)に意味深なことを囁く印象的な場面が登場しました(怖)。あれはまさに呪いの言葉!!さすが草笛さんでございました。

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北条宗時の墓

「鎌倉殿~」の序盤に登場し活躍した北条三郎宗時。北条家の嫡男として積極的に平家追討を訴えていた姿が印象的でした。

演じていたのは大好きな片岡愛之助さん。三谷作品の常連になってきましたなw。

「平家をぶっ潰すぜ!」というパワフルなセリフが飛びだしたのには驚かされたw。弟を翻弄しつつもグイグイ北条家を引っ張っていく逞しいお兄ちゃんを好演されていたと思います。かなり漫画チックなキャラになっていたのはそういう設定だから仕方ないけど、個人的にはもう少しシリアスなシーンも入れてほしかったなとも…。

アクセス

整備された道沿いの脇に上っていく坂の上にお墓があります。車1台分が停まれるスペースもありますが、けっこう難易度高いかもしれません(汗)。東海道本線の函南駅からは徒歩で行ける距離なので、車よりも電車で訪れたほうがいいような気がします。

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北条宗時は史料が乏しく生まれた年など分からないことが多いようですが、時政の嫡男義時の兄だということは確かではないかとされています(政子の弟だったとも考えられるとか)。

1180年に頼朝が平家打倒を決意し挙兵した折には、北条氏のトップとして活躍し父や弟たちと共に戦い伊豆目代の山木兼隆を討ち取ることに貢献しました。その後勢いに乗って大庭景親との戦いに臨みますが(石橋山の合戦)大敗北を喫してしまう。

敗走するにあたり、分散して行動したほうがいいということになり北条氏サイドと頼朝サイドは別行動をとることに。しかし、父や弟と違う場所に向かっていた宗時は伊東祐親軍に囲まれてしまい無念の最期を遂げてしまいました…。平家打倒を一番熱く訴えていた宗時がその序盤の段階で討ち取られてしまうというのは何とも切ない(実際に宗時がどのくらい平家打倒を望んでいたのかは本人のみぞ知るといったところですが)。

ちなみに、大河で宗時を襲撃した梶原善さん演じる善児はドラマオリジナルの架空の人物です(汗)。実際に宗時を討ったのは小平井久重という人物だったと伝わっています。

けっこう急な坂道を上っていくと、”北条義時ゆかりの地”という旗が見えてきます。その先に宗時のお墓があります。

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少し大きめの宝篋印塔が宗時の墓で、向かって左隣にある小さめの塔が狩野茂光の墓だそうです。

鎌倉幕府成立後の1202年、父・北条時政の夢枕にお告げがあったらしく、それを受けて一度伊豆に戻り宗時の追善供養を行ったという記録があるらしい。このお墓はその時に建てられたものかもしれません。

狩野茂光は北条時政の信頼が厚かった人物のようです。石橋山の合戦で敗北した折に傷を負ったことで自刃したとのこと…。一説では体が大きかったため足手まといになることを良しとせず介錯を頼んだという話もあるようです。切ないですね…。
ちなみに、茂光が宗時と一緒に行動していたかどうかは定かではありません

お墓のすぐ脇には「宗時神社」という家屋が建っていましたが…、歴史的風情はなく簡素な小屋に見えてしまったので撮影はしませんでした(苦笑)。

※仁田忠常の墓、高源寺、北条宗時の墓は静岡県の函南町という地域にあります。距離的に近いので周りやすいかと。
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