「鎌倉殿の13人」ゆかりの地レポート -源頼家の終焉の地-

2022年度大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。妙な笑わせようとしてくるシーンは好きじゃないのですが(汗)鎌倉時代前後が取り上げられ注目されていることには非常に大きな関心を寄せています。

GW期間中に大河に出演した人物ゆかりの地をいくつか訪ねることができたので、紹介していきたいと思います。今回は、2代目鎌倉殿の源頼家について。

『鎌倉殿の13人』ゆかりの地レポ一覧

源頼家について

源頼家は1199年に父で初代鎌倉殿の頼朝が急死したことを受け、急遽2代目を継ぐことになりました。しかし頼家このときまだ若干18。圧倒的な存在感を放っていた父・頼朝を越えようと気合は十分だったものの経験不足で失政が続いてしまい、それを危惧した母・政子や祖父・時政は話し合いの末に頼家の影響力を削ぐ目的で将軍直々に政治判断を行う「親裁」を廃止することを決めてしまいます。頼家が家督を継いだ3か月後、有力御家人による合議制政治、つまり、大河ドラマのタイトルにもなっている「13人の合議制」が発足しました。

この合議制システムによって権力を奪われたことに反発した頼家は、自らが選出した近習を側に置き影響力を強めようとしました(ドラマでは泰時や時房が加わっていましたが、史料に彼らの名前は無いようです←時房がいた可能性はあるらしい)。
安達盛長の息子・景盛の妾を欲した頼家の命に従い留守を狙って強奪したのは、近習の内の数人だったと言われています(ドラマでは話し合いという穏便な形で描かれてたけど)。この頃から頼家に対する評価は急激に落ちていきました。

※安達盛長についてのレポ

ところが13人の内の一人、梶原景時が乱を起こし失脚・討伐された後に三浦義澄と安達盛長が相次いで病没。13人の合議制システムはわずか1年ほどで解体されることになってしまいます。ちなみに、頼朝の娘が亡くなったことを機に一番最初に合議制から抜けていた中原親能は、大江広元の兄でした。

※梶原景時についてのレポ

1202年に征夷大将軍となった頼家でしたが、叔父の阿野全成を粛清した3か月後の1203年に突然倒れ重篤な状況に陥ってしまいました。病状の回復が見込めないと判断されたことで、3代目鎌倉殿の後継者を巡って北条氏と比企氏の対立が激化。頼家は比企の出で正室の若狭局(ドラマではせつ)の息子・一幡を跡継ぎにと考えていましたが、北条氏側は頼家の弟にあたる千幡(後見人は時政)を跡継ぎに据えて権力掌握を狙います。

北条の動きを察知した比企能員は症状が回復してきた頼家に密告し時政追討を計画しますが、この企ては北条氏の知るところとなり失敗。その後比企氏は北条氏によって一族ごと滅亡させられ、頼家の妻・若狭局や跡継ぎに考えていた一幡も巻き込まれる形で殺されてしまいました(比企能員の乱)。

※比企能員についてのレポ

病状が回復した後にこの事件を知った頼家は激怒。改めて北条時政の追討令を出しますが、それに従う者はなく…逆に伊豆の修善寺に幽閉されてしまう。翌年の1204年7月、入浴していたところを襲われ壮絶な最期を遂げることに…。

大河ドラマ第33回で頼家の最期が描かれていましたが、入浴中ではなく京の踊りを見ている最中に抹殺されてしまったことになっていました。史料による描写はかなり残酷なものだったようなので、このような演出に変えたのかもしれません。真相は分からないことも多いですからね。

鎌倉時代について書かれてある「吾妻鏡」は北条氏アゲアゲな傾向が強く出ている史料ということで、対立関係にあった比企氏と繋がりの強い頼家についてはかなり批判的な記述が多いらしい。その死に関しても「亡くなった」という事実しか書かれていないそうです(汗)。
急に重篤な病になったあと奇跡の回復をみせていた頼家、もしかしたら北条側に毒殺されそうになっていたのでは??と勘繰るところもありますね…。たしかに政治的能力は低く人望も薄い人物だったかもしれませんが、武術に長けていた点や蹴鞠を必死に練習し朝廷との繋がりを模索していたような評価すべき一面もあったのではないかなと思います。

大河ドラマでは、未熟ながらも繊細な一面を持つ頼家の哀しさを金子大地くんが非常に魅力的に演じていました。特に孤独を感じさせるお芝居は秀逸でものすごい感情移入したなぁ。頼家さんも少し報われた気持ちになったのではないでしょうか。もう会えなくなってしまうのが寂しいです。

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修禅寺

修禅寺(修善寺)は平安初期の807年に弘法大師空海が開基したと伝わる古い歴史のある格式高いお寺です。その後幾度か戦火によって荒廃してしまった時期もあったようですが、1481年に北条早雲が再建し今に至ります。

山門前に流れている桂川の景色がとても美しいです。

1203年に実権を奪われたうえ強引に出家させられ修禅寺に幽閉されてしまった源頼家。本堂横にある宝物館には頼家ゆかりのものを実際に目にすることができるそうです(今回は時間の関係で訪れることができませんでした…残念!)。入場料300円。

その中でも有名なのが「頼家死相の面」(複製)。実際の詳細は未だ謎のままですが、頼家のものとして現在も保管されているのだとか(←大河ドラマ第33回にもこの面の存在が出てきました)。
1908年に修禅寺を訪れた際にこの面を見た岡本綺堂は、そこからインスピレーションを得て歌舞伎の戯曲『修善寺物語』を執筆したとされています。1911年に東京明治座で初演され大好評を得たそうな。

また、修禅寺は頼家の叔父である源範頼が幽閉、その後暗殺された舞台ともなっています。修禅寺の宝物館では範頼に関する史料を見ることもできるとのこと。機会があればぜひ訪れて目にしたいところです。

毎年7月17日の命日前後には悲劇の将軍・源頼家の霊を慰めるため「修善寺頼家祭り」と称する墓前祭が行われ現在も続いています。新型コロナ禍のになってからは中止が相次いでいますが(2022年も中止だったとか)、早く開催できるような環境になってほしいなと思います。

アクセス

伊豆箱根鉄道の終点・修善寺駅からバスかタクシーで10分ほどの距離にあります(歩くとかなりかかるかも)。車の場合はお寺の周辺にある修善寺温泉駐車場(いくつかあります)に停めることができます。基本的に修禅寺周辺は徒歩で巡る感じですね。

光照寺

頼家の面に関してはもうひとつ「頼家病相の面」と伝わるものが光照寺に存在しています。

幽閉されていた頼家は、北条氏が密かに侵入して漆を投入した湯に入浴してしまい全身皮膚炎を患い醜い容貌になってしまったと…(震)。その様子を母・北条政子に伝えるため自分の面を彫らせた後、武田信光を使いに出しました。

ところが、到着する前に頼家が暗殺されてしまったことを知ってしまった信光。引き返して光照寺に面を奉納し弔ったと伝わっているそうな。現在も非公開ながらこのお寺で大切に保管されているとのことです。

アクセス

伊豆箱根鉄道駿豆線の韮山駅からだいたい徒歩10分のところにあります。周辺には北条時政縁の願成就院や、北条政子の産湯、北条氏邸跡があるので、光照寺へ行くときは北条氏関連の場所を巡る折に訪れるのがベストかと。

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筥湯

”筥湯”は修禅寺に幽閉されていた頼家が入っていたと伝わる温泉。山門前に架けられている虎渓橋のたもとに古い湯殿の跡が発見されていることからそのあたりだったのではと言われています。現在の施設は2000年(平成12年)にそのすぐ近くに建てられたもの。

1204年、入浴中だった頼家は北条氏の刺客に襲われ暗殺されてしまいました。
大河では狩りの腕がイマイチだったと描かれていましたが、実際はかなりの名手で武芸に長けていたと伝わる頼家。襲われた時もかなり激しく抵抗したようで、最終的には相当残忍な方法で仕留められたらしい(怖っっ)。このあたりの顛末は「愚管抄」に書かれているとのこと。ここはおそらくドラマでも詳しくは描けないかと…、と思っていたらやはり出てきませんでしたね(汗)。

かつて修善寺エリアには7つの外湯が存在し賑わいを見せていましたが、現在は伊豆最古の温泉「独鈷の湯」跡を残すのみ。ということで、新たに建てられたのが現在の「筥湯」。内風呂のみのシンプルな造りだそうですが、檜の香りなど温泉情緒に浸れる癒しの湯とのこと。頼家を偲びながら入ってみたいものです。

ちなみに「独鈷の湯」は見学のみできるようになっています。

アクセス

修禅寺前の虎渓橋を渡ってすぐの場所にあります(案内板有り)。専用駐車場はないので車で行く場合は周囲にある有料駐車場に停めて行くようにしましょう。

指月殿

修禅寺で暗殺されてしまった息子・頼家の墓前を弔うために北条政子が建立した経堂・指月殿伊豆最古の木造建物としても有名だそうです。かなり年季の入った雰囲気で歴史の重みのようなものすら感じました。これは一見の価値ありだと思います。天災などで被害に遭わないことをただただ祈るのみ…!

”指月”とは経典を意味し、政子が寄進したものの一部が修善寺の宝物館に保管されています。

お堂の中には、ご本尊である高さ2mほどの釈迦如来坐像が安置されています。右の手に蓮の花を持っている非常に珍しいお釈迦様象(他の釈迦像は何も持っていないそう)。静岡県文化財に指定されています。中に入ることができないので入口からお写真を撮らせていただきました。
1982年に2年かけて修復作業が施され今に至っているとのことです。

頼家は北条氏に殺されてしまいましたが、母の政子はそこに深く関わっていなかったのではないかと思えてなりません。どんなに問題のある息子でも、愛情があったのは間違いないのではないかなと。

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源頼家の墓

指月殿から向かって左側に少し進んだところに2代目鎌倉将軍・源頼家のお墓があります。

政争に敗れ、修善寺に追放されたのち北条氏によって暗殺されてしまった頼家。享年23という若さでした(涙)。人望が薄い人物ではあったかもしれないけれど、あまりにも若くして命を絶たれてしまったことを考えると胸が痛みます…。

正面にある碑は、1704年(元禄16年)に頼家没後500年を祈念して当時の修禅寺住職だった筏山智船が建立したものだそうです。その後ろにある小さな五輪の石塔が頼家の墓と伝わっています。

説明版には「2基」とありましたが、実際は「3基」並んでいました。一説によると、中央にある塔が頼家で、両端にあるのが妻の若狭局と長男の一幡ではないかとのこと(詳細は分かりませんが)。

十三士の墓

頼家の死の6日後、その家臣だった13名が主君の仇討ちを計画したものの挙兵前に察知された北条氏によって粛清されてしまいました。誅殺されたとも自害したとも言われているそうですが、13人の名前も含めその詳細は未だに解明されていないのだとか…。

ちなみに、下手人は北条義時の家臣だった金窪行親と伝わっています。金窪はかなりの手練れだったことが伺える人物。大河ドラマに出てくる暗殺者・善児とその弟子トウは金窪をモデルにして描いたのではないかと…(推測ですが)。

もともとは南町公民館上にある御庵洞と呼ばれる場所にあったそうですが、2004年(平成16年)の台風被害を受け裏山が崩落し墓所が壊れてしまったとのこと。翌2005年(平成17年)7月に頼家の墓のすぐそばにある現在の場所に移築されました。主君のすぐ近くに移されたことで、13名の魂が少しでも安らいでいればいいなと思います。

頼家の墓・十三士の墓・指月殿のアクセス

3カ所とも非常に近い場所にあります。案内板もあるので徒歩でゆっくり巡りましょう。

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