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「鎌倉殿の13人」ゆかりの地レポート -安達盛長-

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2022年度大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。以前から興味を持っていた鎌倉時代前後が取り上げられているので関心をもって見ています(ドラマのテイストは正直好みではないのですが 汗)。

GW期間中に大河に出演した人物ゆかりの地をいくつか訪ねることができたので、紹介していきたいと思います。今回は、13人の合議制の一人に数えられた安達盛長の墓地についてのレポ。

『鎌倉殿の13人』ゆかりの地レポ一覧

安達盛長について

安達藤九郎盛長は、源頼朝が蛭ヶ小島に配流された時代から仕えていた忠臣でした(頼朝の乳母である比企尼の娘が盛長の正室だった縁による)。大河ドラマでは野添義弘さんがちょっと頼りない雰囲気ながらも懸命に鎌倉を支えようとするキャラクターを好演。

安達盛長はドラマではあまり描かれていませんでしたが、実際は交渉術に長けていて平家との戦いにも貢献をしたことで頼朝から大きな信頼を寄せられていました。
また蛭ヶ小島時代、時政の次女に恋愛感情を抱いた頼朝が盛長にラブレターを託したものの彼はそれを長女宛てに書き換えて届けさせていたという逸話もあります。当時、次女に良くない噂が多かったことを危惧した盛長が長女の政子と交際するよう仕向けた…みたいなことらしい。結果的に頼朝が政子と結婚したことで鎌倉幕府に繋がっていくので、先見の明があったということでしょうか。

1199年に源頼朝が急逝したことに大きなショックを受けた盛長は、出家して”蓮西”と名乗るようになります。その後、2代目鎌倉殿となった頼家の政治が安定しなかったことからそれを支えるための13人の合議制のメンバーに選出、三河守護を任されることになりました。

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大河ドラマ第28話では、盛長の息子の安達景盛と頼家の険悪エピソードが出てきました。景盛は少年時代に時政の息子・金剛(後の泰時)と喧嘩をしてしまった時に登場しています。

あの時の悪ガキっぽい子がすっかり成長して妾を持つようになっているとはw。

2代目の鎌倉殿となった源頼家が、景盛の妾(もしくは妻)にゾッコン状態となり強引に略奪しようとする事件が勃発(ドラマでは話し合いの場が持たれていましたが、史料には景盛の留守中に側近を遣わして強奪したという記述があるらしい 汗)。頼家はもともと仲が悪かった景盛を”自分を恨む存在”とみなし父の盛長もろとも討伐しようと目論みますが、母の政子の体を張った決死の説得により事なきを得ました(かなりキツい灸を据えたらしい)。
実際の出来事かどうかは不明ながらも、この頃から頼家の人望はますます危ういものになってしまったようです。

この一件で盛長は頼家の側近である梶原景時に強い不信感を抱くようになり、彼を追い詰めることになる66人の弾劾状にも積極的に賛同しました。

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安達盛長の墓

安達盛長は、梶原景時の変の翌年1200年4月に66歳の生涯を閉じました。忠誠を誓った頼朝の死からわずか1年後、後を追うように亡くなってしまったのですね…。伊豆の修善寺裏にある山道脇に盛長の墓と伝わる宝篋印塔があります。

もともとは、娘婿でもあった源範頼(頼朝の弟で修善寺にて暗殺されてしまいました)のお墓のすぐ近くにあったそうですが、道路工事の影響によって現在の場所に移されたとのことです。

近くには綺麗な小川が流れていて、辺りはとても静か。盛長さんも安らかな眠りについているだろうなと思えるような場所でした。

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アクセス

墓地へ続く道の入口に数台の車を置けるスペースがありました。割と入口から近い場所にあるので分かりやすいと思います。

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