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「鎌倉殿の13人」ゆかりの地レポート -畠山重忠と重保(鎌倉市)-

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2022年度大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。妙な笑わせようとしてくるシーンは好きじゃないのですが(汗)鎌倉時代前後が取り上げられ注目されていることには非常に大きな関心を寄せています。

GW期間中に大河に出演した人物ゆかりの地をいくつか訪ねることができたので、紹介していきたいと思います。今回は、畠山重忠とその息子・重保について。

『鎌倉殿の13人』ゆかりの地レポ一覧

畠山重忠の乱について

畠山重忠は、平安末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将。現在の埼玉県深谷市畠山の出身と伝わっています。深谷といえば、2021年度の大河ドラマ『青天をつけ』の渋沢栄一も同じ出身地で大きな話題になっていましたね。2年連続深谷が熱い!

重忠はもともとは平氏ゆかりの人物でしたが、頼朝が平家追討のために挙兵した際はその味方について戦功を上げ信頼を得るに至りました。真相は定かではありませんが、一の谷合戦での「鵯越え」の際に馬を背負いながら坂を駆け下りたというエピソードは有名です。
清廉潔白で実直な人柄であり、さらには武勇や知略にも優れていたことから「坂東武士の鑑」と称されるほどの人物でした。

大河ドラマでは中川大志くんが誠実で爽やかな重忠を好演。冷静沈着なお芝居もカッコよかったので、死を覚悟しなければならなくなる場面はとても哀しかったです…。特に和田義盛を前にして「誰が戦など誰がしたいものか!!」と本音を絶叫した場面は切なすぎて泣けました。中川君、素晴らしかったよ!!

畠山重忠の乱は、大河ドラマ第36回「武士の鑑」で描かれました。

1204年、3代目鎌倉殿となった源実朝の妻を迎え入れるために上洛していた重忠の嫡男・重保は、京の平賀朝雅の館で行われた酒宴の席で朝雅(大河では山中崇さんが怪演)と激しい言い争いをしてしまいました。その場は周りの取りなしでなんとか収まったものの、納得がいかなかった朝雅は翌年になって牧の方(大河ドラマでは”りく”)に讒訴。これが夫の北条時政の耳にも入るところとなり、畠山討伐へと動くことになってしまったそうな…。ちなみに、朝雅は時政の娘婿に当たります。

父の時政から事の経緯を打ち明けられた義時と時房は「重忠が謀反など起こすわけがない」と反論したそうですが、牧の方の兄が二人を熱心に説得したことで討伐を受け入れざるを得なくなってしまったとのこと。大河ドラマでも義時と重忠は信頼し合う絆で結ばれていた描写が多かったので、こういう顛末を迎えてしまうのはとても切ないことだと思いました…。

戦が起こる要因のひとつに、執権として絶大な権力を持った時政が畠山氏がこれまで受け継いできた武蔵の国を掌握しようと画策したことが挙げられるとか。それまでは良好な関係だった重忠と時政でしたが、時政の武蔵国に対する野望が二人の間に亀裂を生む原因となったのではと言われています。この経緯は大河ドラマ(第34回~35回)でも描かれていました。

また、朝雅と畠山重忠の嫡子・重保が激しい口論となった(大河ではサラッとで終わってたけど 汗)翌日に時政と牧の方の愛息・政範が謎の突然死を遂げてしまったこともきっかけとも言われています。大河ドラマ35回では、源仲章に唆された朝雅が次期執権となる野望を抱き政範を毒殺、それを察知した重保に恨みを抱き牧の方に「畠山排除」を讒訴したよう描かれていました(史料とは逆の順番かな)。
この展開はドラマオリジナルだと思いますが、政範の不審死を考えるとあり得ない話ではないし、畠山討伐に時政や牧の方(りく)の心が動くのも納得だなと思ってしまった(震)。

追討令が出されていることを知らなかった重保は三浦義村らによって由比ヶ浜で討ち取られてしまう。鎌倉が騒がしいことに気づいた重忠は、現在の横浜市旭区にある二俣川付近に進軍したときに息子が討ち取られたことと自分に追討の兵が向けられていることを初めて知ったと言います…。さぞかし衝撃を受けたのではないでしょうか(涙)。

二俣川で義時が率いる大軍と勇敢に奮戦した重忠でしたが、多勢に無勢だったがゆえに最期は雨のように降り注ぐ矢の犠牲になったと言います…(大河ドラマでは義時と一騎打ちの殴り合いになっていましたが、これはおそらく見せ場を作るための創作でしょう)。享年42という若さでした。父の死を知った次男たちも後を追って命を絶ちました。討ち取った側の義時も無念の涙を流したとか。あまりにも悲しすぎる事件でした…。

義時から「本当に重忠に謀反の意思はなかった」という報告を受けた時政は、何も言葉を返すことができなかったそうです。また、重忠討伐のために戦った稲毛重成父子らは重忠を唆した張本人とされて三浦義村によって討ち取られたとのこと…。これもホント理不尽な事件です。

この乱がきっかけとなり、初代執権の時政は失脚。妻の牧の方共々鎌倉から追放という処分を受けることになります。事件の張本人となった平賀朝雅は義時の命によって誅殺されました。

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畠山重保の供養塔

1204年の秋、畠山重忠の嫡男・重保は実朝の妻を迎え入れるために上洛した際に宴席で平賀朝雅と激しい口論を繰り広げる事件を起こしてしまいます。

そのことが尾を引き、朝雅は翌年になって時政の愛妻・牧の方に畠山親子を排除するよう讒訴。愛息の政範を失い哀しみの真っただ中にあった牧の方は、すぐに時政に報告し畠山討伐を強く訴えたとのこと。もしかしたらドラマの展開のように、息子の死に畠山が絡んでいると考えていたからかもしれません。北条義時と時房は畠山の無実を信じていましたが、最後は押し切られる形となってしまいました。

1205年6月、謀反を企んでいる者たちが由比ガ浜に集結しているという嘘の報告を信じた重保は少数の手勢と共に駆けつけますが、待ち受けていた三浦義村による騙し討ちに遭い命を落としてしまいました。義村に命じたのは北条時政だと伝わっています(大河ドラマでもそのような展開になってましたね 涙)。

重保の邸宅は鶴岡八幡宮の一の鳥居からほど近い場所にあったとされ、現在はその場所に石碑が建っていました。

おそらくこのあたりで重保は討ち取られてしまったのでしょう…。

そのすぐ脇に「畠山六郎重保の墓」と伝わる石造宝篋印塔が建てられています。

高さ3.4メートルを超える宝篋印塔は1393年(明徳4年)に制作されたものと推測されるため、どちらかというと”供養塔”の意味合いのほうが大きいかもしれません。現在は鎌倉市指定の有形文化財に指定されています。
別名「六郎様」と呼ばれ親しまれており、重保が喘息持ちだったと伝わることから宝篋印塔に咳の病平癒を願うと回復するという伝承があるとのこと。

なお、横浜市金沢区釜利谷にも畠山重保の墓と伝わる石碑があるそうです。釜利谷付近には「六郎」と名前の付いた橋や公園が多いとのこと。機会があれば訪れてみたいです。

アクセス

鶴岡八幡宮に向かって左側の歩道に石塔があります。近くに大きな一の鳥居が建っているので比較的わかりやすいと思います。

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畠山重忠邸跡

畠山重忠は源頼朝が平家打倒の兵を挙げた初期の頃は敵対関係にありましたが、頼朝が相模国に入った頃それに従うようになり大きな戦功をあげ信頼を得るところとなりました。”坂東武士の鑑”と称され多くの人から慕われ、頼朝は嫡男の頼家に「自分にもしものことがあれば、その後は重忠を頼るように」と伝えたとも言われています。

しかし、頼朝の死後に御家人同士の権力争いが激化していき…重忠は北条時政の野心の前に無念の最期を遂げることとなってしまいました。

重忠の屋敷は幕府の中心だった大蔵幕府の南御門前あたりの一等地にあったと伝わっていて、現在はその場所に碑が建っています。碑文によれば、頼朝の娘・三幡が病に侵された際その治療のため京からやってきた名医がこちらの重忠邸に移住したそうな。

アクセス

鶴岡八幡宮からほど近い小径に碑が建っています。狭い道なので徒歩で巡りましょう。すぐ近くには頼朝の墓や義時の墓と伝わる法華堂跡もあります。

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