第3弾のあとずいぶん時間が空いてしまってすみません(汗)。源平屋島合戦ゆかりの地巡りの第4弾になります。
源平屋島合戦ゆかりの地一覧
屋島といえば、多くの人が思い描くのが「那須与一」ではないでしょうか。
与一は謎の多い人物で生年月日も定かではありませんが、「平家物語」や「義経記」などによれば那須家の11男として誕生し(11番目の男子=”十余り一”ということで与一と名付けられたらしい)、幼いころから弓道の腕が抜群に良かったとのこと。
1180年、那須に来ていた義経と出会ったことで源氏に味方することを決意(ちなみに与一と10男以外は平氏に味方したそうです)。
そして、1185年。屋島の戦で与一は名を挙げることになるのです。
ちなみに、幼少期を現在の栃木県大田原市で過ごしたとされることから、ご当地キャラ「与一くん」が誕生し、現在各所で活躍中です。
握手すると「一矢必中」のご利益があるらしい。与一くん、大好きっ!
以下、写真はクリックすると全て大きくなります。
源平屋島の合戦ゆかりの地(4)-那須与一-
祈り岩
屋島の戦が膠着状態となったある日の夕刻、平家方から一艘の小舟が近づいてきました。そこには、一人の女性が乗り込んでいて、日輪が描かれた扇を掲げていました。「扇を射ち落としてみよ」との挑戦状のようなものだったようです。
この戦占いに乗った源義経は扇を射落とせるものはいないかと声をかけた結果、白羽の矢が当たったのが那須与一でした。ちなみに与一の兄も候補となったようですが「自分には無理!」ってことで弟に譲ったらしい。
思わぬ大役を任された与一はいよいよ腹をくくり、扇を狙うことになります。本番に向かう時、
「南無八幡大菩薩、別してはわが国の神明日光権現、宇都宮那須湯泉大明神、願わくはあの扇の真中射させ給えかし」
と祈りをささげた岩が「祈り岩」です。
現在は埋め立てられて陸に上がってしまったとのことで、県道脇の囲われた場所に残されています。
ちなみに、駒立岩の側には当時を思わせる「祈り岩」のレプリカが設置されています。
アクセス
高松駅・瓦町駅から出ているバス74系統庵治線で、「祈り岩・与一公園前」駅まで行くのが近いと思います。
駒立岩
与一が祈り岩に祈願したのち、海の様子が鎮まったという伝説があるそうな。
そして、意を決して弓矢を放つとき、与一が馬を止めたとされる岩が残っています。潮が引いた時に岩が水の上に見えるようになります。満潮のときには沈んでいるので、行く前に潮の満ち引きはチェックした方がいいかも。
こちらが駒立岩。「駒」とは馬のことです。与一はこの岩の上に馬を止めてから扇をめがけて矢を放ち見事命中させました。
与一の狙った位置から扇の場所までは約70メートルだったとされています。
その距離感が分かるように正面には「扇を持った女性の乗った舟」が描かれたパネルが見えるようになってます。実際に立ってみるとけっこう遠い!しかも、当時は風もそこそこ吹いていたということなので、与一の弓矢の腕がいかに凄かったかというのがこの場所に来ると実感できると思います。
与一はこのチャレンジに失敗したら切腹する覚悟だったと伝わっています。失敗は=源氏の負けを連想させるものだったので、責任重大な任務だったということです。
与一の見事な腕前を目の当たりにして、源氏も平家も一斉に「見事!!」と称えたそうです。
ところが、この時にひときわ目立って喜んでいた平氏の一人は、義経の命令によって与一に射抜かれて落命したそうな…。それがきっかけで屋島の戦が再開したとされています。なんとも切ない話ですね。
駒立岩と祈り岩のレプリカ沿いに無人の資料館もあります。
子供にも分かりやすいパネルなどの展示もあるので、興味がありましたら立ち寄ってみてください。
アクセス
「祈りの岩」から少し行ったところにあります。案内板もあるので分かりやすいと思います。
番外・那須与一の墓
屋島地域の史跡からは外れますが、那須与一繋がりということで…墓所について少し触れたいと思います。
那須与一は屋島の戦の折に扇を射ち落とした功績が大いに評価されて、戦の後に源頼朝から荘園を賜ったそうです。また、平家方に着いていた他の兄弟たちも与一の口添えで赦免されます。頼朝から褒美でもらった荘園を兄弟たちにも分け与え、那須家が反映していったという言い伝えが残っているそうな。これが本当だとしたら、与一ってすごい人格者だったんですね。
そんな那須与一の晩年は今でも謎が多く残されているようです。墓所もいくつか残されていますが、那須氏としての本墓は栃木県大田原市の玄性寺だそうです。こちらはまだ訪れたことはありません。
幾つか残されているお墓の内の一カ所を尋ねたことがあるので少し紹介します。
7-8年前、まだ関東に住んでいた時に『平清盛』史跡めぐりの旅で神戸を訪れたことがありました。その時に、偶然「那須与一の墓」の文字を見つけて急遽立ち寄った場所があります。
源平の戦が終わったあとに病を患い、家督を兄に譲ったあと出家して放浪の旅に出たという与一。その最期の地となったのがこの場所だと伝わっているのだそうです。
こちらが与一のお墓と伝わる墓石。お参りすると年老いた後もシモの世話になることはないという言い伝えがあるらしい。
この時は時間がなくてこれきりになりましたが、すぐ近くには与一が戦勝祈願を行ったとされる北向八幡神社もあるとのことです。
アクセス
那須与一、謎多き人物ですがとても興味深い遺跡が各所に残っているようです。興味がある方は色々と尋ね歩いてみてはいかがでしょうか。ドラマの題材としても一度見てみたいものです。
次回で源平屋島合戦の史跡レポは完結予定です。