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「鎌倉殿の13人」ゆかりの地レポート -木曽義仲・今井兼平-

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今井兼平の墓(滋賀県大津市)

JR石山駅からほど近い盛越川のほとりに、木曽義仲を最後まで守り抜き壮絶な自害を遂げたと伝わる今井兼平のお墓があります。

「鎌倉殿~」では町田悠宇くんが渋い存在感を発揮し熱演していました。

昨年の大河『青天を衝け』で熱血水戸藩士・菊地平八郎を好演したのが記憶に新しい町田君。2年連続で大河に出演し爪痕を残したのは本当に凄いと思います。今後も要注目の俳優さん。

アクセス

義仲寺からは少し離れた場所にお墓があります。道は狭いですが、兼平庵前に2台くらいの駐車スペースがありました。電車ではJR東海道・山陽本線が便利。

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兼平と義仲について

義仲は父・義賢が討たれたのちに木曾の中原兼遠の預かりとなりました。その兼遠の息子が今井兼平。巴御前は妹に当たります(兄は木曾四天王の一人・樋口兼光)。義仲と兼平は「死ぬときは一緒に」と約束を交わしたほど固い絆で結ばれていたとも伝わっているそう。”乳兄弟”を越えた共鳴しあう関係にあったのかもしれません。

「平家物語」の「木曾最期」の段では、義仲と兼平の熱く固い主従関係が感動的に描かれているそうです。敗戦が濃厚になった時、義仲が兼平のことが心配すぎて敵に追われながらも彼が守る瀬田に駆けつけ「打出浜」で奇跡の再会を果たしたというエピソードは印象的。ドラマ化してほしいほどです。
二人が最後の戦いへ出向いた時に相対した敵は、甲斐源氏の一条忠頼。忠頼は義仲軍を打ち破りましたが、その後頼朝から謀反の疑いを掛けられ消されてしまいました(「鎌倉殿~」でもその場面が描かれていました)。

残り2騎となり覚悟を決めた義仲は兼平に「鎧が重く感じる。もう一緒に討死しよう」と持ち掛けますが、兼平は「私が千騎分の働きで敵を防ぐので粟津の松原で自害してほしい」と説得したとされています。疲れ切った状態の義仲が名もない者に討ち取られることを良しと思わないが故の気遣いだったらしい…。
本当かどうかは本人たちのみぞ知るところですが、兼平の義仲への無償の忠義心(もはや愛!)には胸熱くなるものがあります。

最期の瞬間まで兼平と共にいたかったであろう義仲でしたが、その心中を察し一人粟津原へ向かうことに。しかし、周囲の環境を把握できていなかったことから馬が田んぼに足を取られ身動きができなくなりました。そして、ふと兼平の様子が気になり後ろを振り向いた瞬間、額を矢で射られ命を落としたと伝わっています。
大河ドラマでは最後の瞬間まで二人一緒だったけど、これはそのエピソードを知った三谷さんによるせめてもの優しさの場面だったのかもしれないなと思いました(たまに良いシーンがあるので見てるw)。

義仲が討ち取られてしまったことを知った今井兼平(義仲を討ち取った人物が名乗りを上げた声を聴いたらしい)。もはや誰も守るべき人はいないと覚悟を決め、「これが日本一の剛の者による自害だ!」と叫んだ後に口の中に刀を咥えたまま馬から飛び降り壮絶な最期を遂げたとのこと…。

あまりに壮絶なその最期の様子は、現在謡曲「兼平」の題材として伝えられているそうです。

義仲のために生き、義仲のために命を捧げた今井兼平。忠義の家臣というよりも、愛する人のために生ききった人物という印象が強いですね。ドラマで再現されたら泣いちゃいそう…。

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兼平の墓

きれいな水が流れる小さな川のほとりに美しく整えられた墓地の入口があります。いくつかの石碑の前を通り過ぎた先に、今井兼平のお墓が佇んでいました。

1661年、普段から今井兼平をリスペクトしていた膳所藩主の本多俊次が墨黒谷で塚を発見しその場所にお墓を立て菩提を弔いました。墨黒谷は兼平が自刃した場所とされていて、ある日俊次の夢枕に兼平が現れたことがきっかけになって探し出したという説があるらしい。

その数年後に俊次の次の藩主によって現在の地へ移され、以来、兼平の子孫の皆さんによって現在に至るまで丁寧に管理されているそう。

大津の人たちに見守られ愛されながら、今井兼平は静かにこの地で眠りについています。

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