2020年度大河ドラマ『麒麟がくる』のゆかりの地である岐阜県恵那市を訪ねてきました。
※同日に訪ねた可児市のレポはこちら↓
可児市から少し離れた恵那市も明智光秀とゆかりが深い地として知られています。ということで、光秀ゆかりの史跡もいくつか訪ねてきました。
「麒麟がくる」ゆかりの地レポ一覧
「麒麟がくる」ゆかりの地 -恵那市の史跡-
白鷹城(明知城)跡
光秀ゆかりの城として可児市ともう一つ恵那市にある「明知城」があります。こちらの城の名前は一般的には「白鷹城」と呼ばれています。1247年に明智遠山家の始祖である遠山景重によって築城されました。以来この城は明智遠山氏によって代々治められていましたが、落城と奪還を繰り返した末の1615年の一国一城令によって廃城となりました。
ちなみに、1572年に武田家家臣の秋山信友(虎繁)が女城主で織田信長の叔母にあたるおつやの方と婚姻を結ぶことで岩村城を手に入れたのち、明知城を攻略しています(上村の戦)。信友とおつやの関係については、『おんな城主直虎』が放送されていた頃にNHKの歴史番組で紹介されてちょっとした話題になっていました。
岩村城はかなりハードな山城とのことですが、一度行ってみたい場所でもあります(今回は時間がなくて行けませんでした)。
一説には「明智光秀誕生の地」とされている白鷹城(明知城)ですが、光秀は土岐氏の関係のほうが深いため遠山氏との縁は薄い可能性が高く”生誕地”ではないという説が有力なようです。
可児の明智城に比べるとかなり”山城”感が強く、ちょっとハードな山道でした。本丸に辿り着くまでに様々な史跡の痕跡があって、当時の城の姿を思い浮かべることができます。
城跡から下ったところには「明知陣屋跡」があります。
1615年に江戸幕府の命で明知城が廃城させられたのち大手門跡に陣屋が建てられ、明治まで存続したようです。
アクセス
車の場合は日本大正村の無料駐車場に停めてから向かうのがベストです。
明智光秀公御霊廟(供養塔)
明智遠山家の墓所となっている龍護寺の山門横に「明智光秀公御霊廟」があります。こちらは供養塔になります。説明版によると、光秀関連の供養塔は「悲痛な想い」が宿っているからか悉くヒビが入ってしまうとのこと。この祠の中にある供養塔もひび割れているそうです…。
可能性は低いとされながらも、「明智光秀公出生の地」という小さな碑も祠の横にありました。
アクセス
供養塔は毎年5月3日の「光秀まつり」の折に公開されるそうで、普段は見ることができません。
於牧の方の墓所
明智光秀の母・牧の方の墓所があります。
光秀が丹波攻め(八上城の戦い)で母親の牧の方と引き換えに降伏するよう八上城主波多野秀治・秀尚兄弟に訴え受け入れられることになりました。ところが、安土城に護送された波多野兄弟は信長によって磔のうえ処刑されてしまいました。
そのことに怒り狂った八上城の兵たちにより、人質となっていた牧の方は磔となり殺されてしまったと伝わっています。
ところが、近年の研究では牧の方が八上城で非業の最期を遂げたのは創作であるという説が有力になってきているようです。光秀は八上城を兵糧攻めによって攻略することに成功したとされ、母親を人質に出すほど切迫した状況ではなかったのではないかとのこと。
大河ドラマ『秀吉』の時には野際陽子さんが壮絶な最期を演じたことで大きなインパクトを残しましたが、『麒麟がくる』で石川さゆりさんが演じたときには人質になるくだりのエピソードはなく穏やかなままフェードアウトということになっていましたね。
波多野兄弟が光秀に助命を約束されながらも、信長が独断で処刑してしまったというのは『麒麟~』でも描かれていたのでそこまでは本当のことだったのかもしれません。
於牧の方の墓は1743年、徳川吉宗の時代に建立されました。当時の世評を配慮して墓石には「南無阿弥陀如来」とだけ刻まれ、その横には於牧の方にちなみ樹齢400年の高野槙が御神木として佇んでいます。
アクセス
墓石は入口の階段を上りさらに少し奥に入ったところにあります。
明智光秀公産湯の井戸
明智光秀生誕の地には諸説ありますが、1528年、千畳敷台地に築かれた落合砦(土岐明智城・多羅砦)で誕生したとも伝わっていて、その折に使われた産湯の井戸が現在も残されています。
近くで覗いてみるとけっこうな大きさがありました。後年、この井戸からは弥生時代の石器や、焼け焦げた柱材などが出土したそうです。
アクセス
けっこう広めの駐車場があります。
今回はかなりの大雨が降ってきてしまったため、土岐明智城・多羅砦までは行けませんでした(汗)。恵那市の史跡めぐりはここまでです。岐阜のレポは次の記事にて。