佐藤継信の碑
安徳天皇社から細い坂道を登ったところに、石を高く積み上げた上に佐藤継信の碑(供養塔)が建てられています。案内には「墓」とありますが、実際のお墓は少し離れた場所にあります。
初代高松藩の松平頼重は、義経の身代わりとなって命を落とした佐藤継信の忠義心に大きく関心を寄せていたそうです。そこで1643年、多くの人に継信の忠義を伝えるために四国遍路道にもなっているこの地に碑(供養塔)を建てました。
屋島寺と八栗寺の遍路道の途中にあり、そこからは屋島の町が一望できます。さぞかし継信も喜んでいることでしょう。
<アクセス>
けっこう細い坂道の途中にあるので徒歩で行くようにしましょう。
佐藤継信の墓
1643年、初代高松藩主の松平頼重によって佐藤継信の新しい墓石が築かれました。頼重さんは碑も建てていますから、よほど熱く継信のことを慕っていたのでしょうね。
1931年には継信の子孫の方が墓地の大改修を行い、現在のように整備されたそうです。
入口には扉がありますが、特に鍵がかかっていることはないので自由に出入りできます。帰るときにはちゃんと扉を閉めるようにしましょう。
継信の碑と墓の距離感は以下のMapを参照してください。少し離れていますが、歩けない距離ではありません(ちなみに私は今回の屋島史跡めぐり、全て徒歩で訪れています)。
屋島方面が継信の碑で、牟礼方面が継信のお墓になります。
門を入って少し奥に進んだところに佐藤継信の墓石があります。
さらに継信の墓石の右奥に目を移すと、義経の愛馬だった”大夫黒”のお墓があります。
大夫黒と義経の関係においては、後白河法皇から賜った馬という説と、藤原秀衡から贈られた馬という説があるようです。どちらが本当なのかはよく分かりませんが、案内板には後白河法皇から贈られた馬と記載してありました(個人的には秀衡から賜った説を取りたいところですが…)。
大夫黒は義経と共に大活躍した名馬で、屋島前の源平の戦・一の谷では鵯越で急な崖を一気に駆け下りたことでも知られています。その功績によって「五位」の位が与えられ”大夫黒”と名前を改めたそうな。
佐藤継信が義経の身代わりとなって命を落とした折、菩提を弔ってくれた志度寺の僧に義経は愛馬・大夫黒をお布施として寄贈。ところが、後に厩から脱走し、継信の墓の前で倒れているのを里人に発見されたと伝わっています(涙)。
義経に忠義を尽くした継信の傍らで、大夫黒は静かに眠りについています。
菊王丸の墓
菊王丸は仕えていた平教経(平清盛の甥)が佐藤継信を射抜いた折にその首を落とそうとしました。しかし、継信の弟・忠信に射抜かれてしまいます。
教経は急ぎ彼を抱えて自陣の舟へと担ぎこみましたが、絶命してしまったそうです…。菊王丸はこの時まだ18歳の若者でした。
菊王丸の死を嘆いた教経は、丁重にこの地に葬ったと伝わっています。
<アクセス>
屋島東小学校の隣側にあります。スペースはそんなに広くありません。
屋島の合戦史跡巡りレポはもう少し続きます。次は義経と弁慶の史跡について。