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NHK大河ドラマ『青天を衝け』最終回ネタバレ感想 青春はつづく

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2021年2月14日バレンタインデーからスタートした大河ドラマ『青天を衝け』。ついに、ついに、最終回を迎えてしまいました。舞台で言うならば”大千穐楽”です。これまで何度か大河ドラマ感想を書いてきましたが、全話欠かさず書き切ったのはこの作品が初めてでした。

全41回と他の大河よりも短い放送回になってしまったことが本当に悔やまれるほど見事な高クオリティを保ち続けてくれた。それゆえ、終わってしまうのが本当に寂しくてたまりません。

新型コロナ禍で行くことを諦めていた大河ドラマ館でしたが、東京都北区飛鳥山のほうは2回足を運ぶことができました。また、念願の渋沢栄一さんと徳川慶喜さんのお墓参りもすることができました。色々思い入れも深い作品になりました。

※大河ドラマ館レポ↓

※渋沢栄一と徳川慶喜のお墓参りレポ↓

感謝の気持ちを込めて、最終回の感想を書いていきたいと思います。

以下、最終回を見て気になったシーンもろもろネタバレあり

これまでの『青天を衝け』感想レポ

青天を衝け
青天を衝け
2021年度NHK大河ドラマ『青天を衝け』の感想レビュー

『青天を衝け』最終回 青春はつづく

2021年12月26日(日)放送 NHKBSプレミアム 18:00~19:00 ほか

出演:吉沢亮、大島優子、笠松将、泉澤祐希 、小野莉奈 、大倉孝二、北大路欣也、ほか

あらすじ

老年になっても走り続ける栄一(吉沢 亮)は、ワシントンの軍縮会議に合わせて再び渡米し、移民問題など悪化した日米関係の改善に尽力する。一方、栄一の後を継ぐ決心をした孫の敬三(笠松 将)は、銀行員となり、経験を積むため渡英する。そんな折、関東大震災が発生。周囲の心配をはねのけ救援の最前線に立った栄一は、内外の実業家に寄付を呼びかけ資金を集める。また中国の水害に対しても、自宅からラジオを通じて募金への協力を呼びかけるが、満州事変が勃発。救援物資は受け取りを拒否されてしまう。それでも栄一はあきらめず、病床から自らの思いを伝えつづける。

<公式HPより引用>

最終回のオープニングも初回と同じく徳川家康さんでした。もはや、この方が出てこないと寂しいと思ってしまうほどなくてはならない存在となりました。昨年の『麒麟がくる』の風間くんもすごく良かったけど、まさか幕末大河の『青天を衝け』でこんなに家康を愛しいと思うことになるとは思いませんでした。

「もっともっとこの目で見ていたい」とは、本当に『青天~』ファンの総意だと思います。渋沢栄一が切り開いてきた道を歩んでいるのはあなた方だ、という言葉が沁みてしょっぱなから泣きそうになりました(涙)。

最終回は栄一の孫の敬三目線で語られていくのがまた胸アツ…。敬三の目から見た栄一が客観的に語られることによって、より立体的に感じられた気がします。

1919年(大正8年)、第一次世界大戦画終結。戦後処理を話し合うパリ講和会議で日本が人種差別撤廃と同時に中国山東半島のドイツ領土の権利を求めた(日本が山東半島の支配権を強めるという思惑もあった)ことで、世界の日本を見る目が厳しくなってしまうことに。アジア各地でも日本人に対する風当たりが強くなっていきました…。

このニュースを知った栄一は激しく動揺し、敬三から体調を崩したのではと心配されるほど忸怩たる想いに胸を痛めていました。ようやく大きな戦が終わり、これからは世界が一つになって共存共栄の道を探っていくことができると思っていた彼の理想は脆くも崩れようとしていた…。

敬三も同じ思いを抱えていたようですが、学友の中にはアメリカや中国に敵意を持つ者も多いとため息をつく。それを聞いた栄一はクワッと目を見開いて「そんなことは冗談でも口にしてはならぬ!!」と一喝。敬三が言ったわけじゃないんだけどねぇ。とんだトバッチリを受けることになってしまって気の毒だった(苦笑)。
でも、念を押すように去っていく栄一はしっかりおじいちゃんしてましたねw。頑固だけどどこかチャーミングで、吉沢くんの演じ方が可愛かった。

喜寿を迎え完全に実業界から引退した栄一ですが、未だに彼の意見を伺いに多くの人が渋沢邸を訪れていました。唯一、第一銀行だけは事業に関わっていたようで兜町にある事務所に通っているというパワフルさ。栄一は休むことなく青天を衝き抜ける勢いで進んでいたんだなぁと驚いてしまう。

そんなある日、すでに細菌学の世界的権威として知られていた医学博士の北里柴三郎(新しい1000円札の人)が栄一を訪ねてきた。北里は予防医学に熱心に取り組んでいて、マスクの重要性を熱弁します。栄一もそれを目を丸くしながら興味深く聞いていました。この場面も現代のコロナ禍の社会とすごくリンクしてるなと思いました。
それにしても、北里さんもご本人の姿とかなり似ててビックリしました。相変わらず再現度がこの大河は高い。

当時のマスクはサイズが小さいけど密閉度は高そうですね。っていうか、栄一がつけるとクチバシみたいになっててなんだか可愛かった(笑)。

院長を務めていた東京市の養育院にも毎月一回必ず訪れていたようで、子供たちも栄一や兼子たちがやってくるのを心待ちにしていました。渋沢邸では養育院のためのバザーなども頻繁に開いていたらしい。
一日15時間は働いていたというから…、ほんと、どんな老人だったんだ!?とビックリしてしまいますね(汗)。その原動力は”日本を良い国にしたい”という熱い想いからだったと思います。

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飛鳥山に渋沢一族が大集合。相当な数のご親族が勢揃いで…まさに圧巻の家族写真w。そのほかにもかなり多くのお妾さんがいらっしゃったようですから(汗)栄一の血を引く子供や孫はまだいたのではないかなと思われます。

最初の内孫でもあった敬三は栄一が望んだ道を忠実に歩んでいました。でも、好きだった動物学への道を捨てたことの未練も捨てきれていない様子…。そりゃそうだよねぇ。
そんなある日、敬三は一冊の本の中にパリ時代の栄一の写真が挟まっていることに気が付いた。写真の裏には”渋沢篤太夫”と記してある。初めて見る若き日の祖父の写真を目にしたとき、初めて「渋沢栄一」という人物をもっと知りたいという気持ちがこみ上げてきました。これまではただ祖父の事業を学ぼうと必死になっていて栄一本人に興味を持つ余裕がなかったであろう敬三。でも、この写真がきっかけとなり仕事に対する想いも変わってくるのかもしれない。

栄一は日米関係が悪化する中で「民」のレベルからそれを改善しようと精力的に動いていました。特に彼が気にかけていたのがカリフォルニア州で日本人の排斥運動が高まっていることだった。最初に渡米したときに出会った移民家族の顔が焼き付いていただろうから、なんとかして彼らが住みやすい環境にできないかと栄一なりに模索し続けていたと思います。
アメリカの実業家たちと話し合いをするも、なかなか平行線をたどるばかりで解決策を見いだせない様子。そのなかで、日本も中国の領土を支配しようとしているではないかという話題が出てきましたが、この時は栄一も「さもありなん」といった表情を浮かべていました。アメリカばかりを責める立場ではないのだということもきっと理解していたのでしょう…。

しかし、会議が終わればみんな和気藹々とした雰囲気で激しい論戦が行われていたのも嘘のよう。意見は対立していても、人と人としては日本人も外国人も互いに尊重し合っている。これが本来あるべき姿なんだろうなと思ってしまいます…。現代はなかなかこうもいかないことも多いように感じるので。
栄一は外国人たちを手厚く接待することにも力を注いでいたようです。敬三の家に彼らを招待すると語り、日本のおもてなしの精神を伝えたいと熱く語っている。敬三にはトイレに至るまで抜かりがないようにと伝えます。細かいところまで行き届いた真心が海外の人の胸を打つのだと栄一は信じていた。こういうことって大事ですよね。

同じ年の9月、栄一は首相官邸で原敬総理大臣と面会していました。日本初の平民宰相である原は対米関係にも協調姿勢を見せていて、栄一の民間外交に対しても手厚く支援していたようです。

栄一は原にワシントンで行われる国際会議には日本もぜひ参加するべきだと熱心に勧めている。しかし原は、ただの軍縮会議ならばありがたく参加させてもらいたいけれども、アメリカや中国と極東問題について話し合うということになると話は別だと苦い顔をする。それほど日本に対する風当たりが強くなっているということか…。

しかし栄一は「今度こそ日本移民の排斥は断固反対だという想いを堂々と主張するべきです」と強く説得する。それでも原は、移民問題はアメリカの内政問題に過ぎないのだから安易に口出しするべきではないとの考えを曲げようとはしなかった。
それを聞いた栄一は「政府は移民のために何も手を打たないというのか!」と激しい口調で抗議しますが、途中で咳きこんでしまいそれ以上の話を勧めることはできませんでした…。さすがのパワフル栄一も年齢には勝てなくなってきたのでしょう。

原首相と面会した2日後、栄一は「子爵」の称号を授けられました。実業界の人たちのほとんどが「男爵」止まりだったことから、栄一がその上の位の「子爵」となるのはまさに異例の出来事だったそうです。

その翌年、東京帝国大学を卒業した敬三は意を決したように「外で働きたい」と栄一に申し出ました。敬三が行きたいと言ってきたのは祖父の第一銀行ではなく横浜正金銀行だった。海外の事情も学べるとのことで、栄一の跡継ぎとしてまずは外で学んでみたいと熱心に説得。その想いに栄一は折れることになったようでした。

その日の夜、栄一は兼子に「どうしても後を継いでほしくてあの子の人生を変えてしまった」と本音を告白していました。好きだった道に進もうとしていた孫の希望を叶えることができなかったことを栄一なりに後悔していたのでしょう…。黙って自分の後を継いでくれた敬三には心から感謝していたと思います。

数日後、栄一は病気療養中の大隈重信の元に見舞いに訪れていました。大隈は引退後は悠々自適に暮らしていたらしく、大好きなメロンの栽培に力を注いでいたようですね。妻の綾子は栄一に「これは”わせだ”という品種なんです」と嬉しそうに説明していました。

大隈重信は日本人で初めてマスクメロンを食べた人物、初めてマスクメロンを栽培した人物として知られるのだそう。マスクメロン協会を設立し、伊藤博文と共に初代会長を務めるほど熱心だったのだとか!

病床にある大隈でしたが、綾子に早くメロンを出すようにと大きな声を出す元気はあるようで栄一は胸をなでおろしていました。意見の違いから対立する場面が増えてしまったことに胸を痛めていたので、久しぶりに穏やかな雰囲気で対面する二人を見て嬉しくなってしまいました。大隈さんの楽し気な「~であ~~る」も聞けたしね。

栄一は大隈にワシントンの軍縮会議のことを想うと眠れないと苦笑いする。栄一はなんとしても移民問題を進展させてほしいと願っていたようですが、なかなか思い通りにはいかない現状がある。
そんな栄一の様子を見て、大隈は彼が高齢の身でありながらも再びアメリカに渡ろうとしていることを察する。「行く気はなかったけれど胸がムベムベしていて眠れない」というのはいかにも栄一らしい言い草w。年をとってもこういうところは変わらないよね。

大隈は「もう82なんだからもっと余生を楽しめ!」と驚きを隠せない様子でしたが、私としては、栄一があの時既に82歳になっていたことに驚嘆しました(笑)。見た目がまだ若々しいのでまさか80越えていたとは思わなんだw。

そんな大隈の言葉に思わずスネてしまう栄一でしたが(これがまた可愛すぎww)、「君はなぜ政治家にならなかった?」という言葉にキョトンとしてしまう。
大隈さんは政治の世界ではいつも孤独だったような気がします。早くに政治の世界から足を洗ってしまった栄一とは対立することも多かったけれど、もしもそのまま残ってくれていたら心強い味方になってくれていたかもしれないという想いがいつも彼の心の中にあったのかもしれない。そう思うとなんだかとても切ないセリフだったな…。

「未だに君に頼らなければいけないのは情けないことであるんである。しかし、それでも頼む。決して、アメリカと戦争の道に進んではならんのである」

真剣な眼差しで訴える大隈の想いを、栄一はしかと心に刻んでいたようでした。おそらくこれが最後の対面になるかもしれない。ようやく二人がこうして想いを同じにできたことに安堵して胸が熱くなってしまった(涙)。
美味しそうにマスクメロンを頬張る栄一を、大隈は嬉しそうに見つめていました。なんだかんだ色々あったけど、二人の心はいつもどこかで繋がっていたような気がします。

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そして、渋沢栄一は82歳にして4度目(いつの間に!!)の渡米を果たす。移動手段は船と列車だったようですから…御老体にはかなり厳しい旅になったのではと思われます(汗)。それでも、大隈との約束を果たすためのも栄一は行動に打って出たのでしょう。ものすごいバイタリティですよ、本当に。

ワシントンでは、海軍大臣の加藤友三郎らがアメリカの記者に囲まれ取材を受けていました。その中の一人に、貴族院議長の徳川家達さんの姿もありましたね。明治元年に徳川宗家を継いだ田安徳川家の家達です。実際のお写真とこれまたよく似ておりました。
軍縮の割合について厳しい追及を受けていた加藤達でしたが、栄一の姿が見えたとたんに記者たちはいっせいに意見を聞こうとそちらへ駆け寄っていってしまった。何度も渡米して日米親善のために尽くしてきた栄一に対し、アメリカ人たちは好意的に思っていたようですね。

会議に来た目的を尋ねられた栄一は、「軍備縮小には大いに賛成いたします。今こそ世界は手を組み、移民問題についても大いに改善を・・・」と熱く持論を展開させようとする。
その話の途中で強引に記者から栄一を引き離し別室へ連れ出したのは駐米大使の漆原だった。栄一は漆原に「排日移民問題は日本のためにもぜひ今すぐ解決するべき事柄です」と熱く訴える。自分もアメリカを廻り出来る限りのことをするから、なんとか討議に加えてほしいと告げますが、漆原は「移民問題を出せば会議は必ず紛糾するから、まずは軍備制限の話に絞るべきだ」と反論する。

漆原は、イギリスが裏でアメリカに「日英同盟の破棄」を要求していることを察していた。まずはそれを阻止することが先決だと考えていたのです。栄一もそういった事情があることも分かっていました。しかしそれでも、何としても議題に「移民問題」を取り上げてほしいと訴え続けている。

「国と国とのかかわりは、結局は人と人との関わりだからだ。外交の問題だけではない。人間の心の根っこにある心の尊厳の問題なんだ」

ただただ日本を守りたい一心で老体に鞭打ってワシントンまでやってきた。そこに込められた栄一の熱い想いに触れた漆原は感極まったように「渋沢さんはやはりすごい。長生きしてください。日本にはまだまだあなたのような人が必要だ」と告げる。あの言葉に嘘偽りはなかったと思います。彼のように考え、行動することができればどんなにいいか…、漆原はそれができないことを悔しいと感じたのかもしれない。

しかしその直後、漆原は深刻な表情で衝撃的なことを告げる。原敬首相が東京駅で暗殺されたのだという…。日本の舵取りをする者が暗殺されてしまう異常事態を知った栄一は衝撃のあまり何も言葉を発することができませんでした。

1921年11月、原敬首相は東京駅の改札口へ向かう途中で中岡艮一という国鉄職員の刃に襲われ命を落としてしまいました。ほぼ即死状態だったそうです。未だにその動機などははっきりと解明されていないらしい…。
現在も、東京駅丸の内南口には原敬が暗殺された現場がマークで記されています。

結局、ワシントン会議では軍縮についての話題が中心となり、栄一が熱望していた日本移民排斥問題については議題に上がることがないまま終わってしまいました…。

それでも諦めずに栄一は列車に乗り込みアメリカ各地を回り民間の立場から日米友好を訴え続けました。演説は80回以上会合は90回以上にも上ったとのこと…。さらには自ら排日活動家に面会を求め話し合いをしようとしたことも多々あったらしい。栄一の移民問題にかける執念は並々ならぬものがあったようですが…、80を超えた身でここまでやれる人はそうそういないと思います(汗)。日米友好の道を最後の最後まであきらめないその姿勢は本当に尊敬に値する。

しかし、その列車旅のなかで哀しい知らせもありました。ある日の新聞に記されていたのは、大隈重信が83歳で天寿を全うしたということだった…。旅立つ前に笑顔で対面できたことはせめてもの救いでしたね…。

1922年(大正11年)、敬三は木内登喜子と結婚した。彼女はなんと、岩崎弥太郎の孫にあたるのだという。ドラマでは触れられていませんでしたが、栄一は弥太郎の親族が敬三の結婚相手だと知って大いに悩んでしまったらしいですね(苦笑)。あれだけ弥太郎とは激しく対立していましたから、敬三の相手を知らされた時にはさぞかし驚いたと思いますw。

敬三は登喜子の兄と友人関係にあったそうで、その過程で彼女に自然と心惹かれていったらしい。つまり、二人は恋愛結婚だったのです。

結婚後は横浜正金銀行のロンドン支店に勤務することが決まっていた為、栄一は登喜子に「慣れない外国暮らしで大変だとは思いますが達者でいてくださいよ」と優しい言葉をかけました。

テラスでくつろいでいた栄一に、敬三は篤二にもイギリス行きのことを話してきたと報告する。複雑な表情を浮かべる栄一に、敬三は「父は今でもおじい様や家族に申し訳ないことをしたと悔やんでいます」と告げる。とはいうものの、女性関係は相変わらず乱れたままらしい(汗)。それでも敬三は篤二に戻ってきてほしいと思っていた。どんな堕落した生活をしていたとしても、やはり”父親”なんだよね…。それに敬三は嫌っていたわけでもなさそうだし。

「人間にとって親子の情は永遠に切れることのない特別なものです」

神妙な表情で、敬三は栄一に「父を許し、今一度再生の機会を与えてはいただけませんでしょうか」と頭を下げる。そんな孫の姿を目の当たりにした栄一は少し複雑そうな笑みを浮かべながら「お前は、優しい子だ…」と告げるのでした。
栄一は自分のせいで篤二が堕落した息子になってしまったという罪悪感も少なからず感じていたと思いますから、これまであまり厳しく叱ることも、向き合うこともできなかったのではないでしょうか。許す、許さない、というよりも、機会があればちゃんと向き合って話したいという気持ちはあったんじゃないかな…。

しかし、あまりにも一族が増えてしまったことで、廃嫡された篤二を戻すことによる歪が生まれるのではないかという懸念もあり、簡単には敬三の願いを受け入れることはできなかった。

そして、大正12年(1923年)9月1日がやってきた…。

栄一は兜町の執務室で書類仕事をしていました。すると、突然建物が小刻みに揺れ始め、やがてそれは大きなうねりとなって牙を向いてきた。机の物は落ち、棚は倒れ、栄一は椅子から転げ落ち立つこともままならない。そんな彼をめがけて頭上のシャンデリアが落ちてきた。間一髪それを交わした栄一でしたが(とても80代の動きとは思えない俊敏さにはちょっと驚いたw)、動揺のため崩れていく部屋を呆然と見つめるしかない。

ドラマでは描かれていませんでしたが、実際には壁も崩れ建物は斜めに傾くほどひどい揺れだったようです。そんななか、佐々木勇之助らが駆けつけて必死に栄一を抱え外に脱出することができた。まさに間一髪の出来事でした。

関東大震災の発生でした。

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お昼時だったこともあり町は火の海に包まれ多くの建物が瓦礫と化している…。栄一たちは命からがら飛鳥山の邸宅に戻りますが、建物は無事だったものの幼い孫たちは恐ろしさのあまり泣き声を上げていた。兼子たちも忙しそうに動き回っている。

栄一はその様子をしばらく呆然としながら見つめていましたが、そこへ勇之助が「兜町の事務所が全焼しました」と無念の表情で駆けこんできた。涙ぐみながら「明治の時代に苦労して作り上げてきたものが全て燃えています」と無念の思いを伝える。

その中には、栄一が希ってようやく完成にこぎつけた「徳川慶喜伝」の多くの資料も含まれていたそうな…。後からそれらを読み返そうと思っていた栄一は大いに落胆したと伝わっているらしい。

するとそこへ、家族を心配した篤二が飛鳥山に駆けつけてきた。その姿を目にしたとたん、栄一の目にみるみる涙がこみ上げてくる…。

「そうか…、お前も無事だったか…!」

そう告げると、栄一は篤二を優しく、そしてしっかりと抱きしめました。息子の体温を感じながら安堵したように「そうか…、よかった…」と感極まる父の意外な反応に篤二は最初混乱した表情を浮かべていましたが、やがてその体にゆっくりと身を委ね涙を流す。
泣きながら何度も「よかった」と言葉をかける栄一に、篤二は「父様…」と言葉を返しそれ以上は何も言えなくなってしまった。

廃嫡事件があってから疎遠になっていたであろう父と息子。関東大震災という悲惨な状況のなかでやっと心を通い合わせることができた。それだけが唯一の救いでしょう…。きっと、篤二もずっと父に謝りたい気持ちはあったと思いますが、どう切り出して良いのか分からなかったのかもしれない。色々と複雑な事情はあったけれど、やはり篤二は栄一の息子に変わりないのです。
栄一は火事で大事な資料など多くを失ってしまいましたが、親族は全員無事という幸運にも恵まれた。離れて暮らす息子とも会うことができた。それだけで十分だと思ったかもしれない。

栄一と篤二の関係のドラマは前回で一応の決着がついた形になりましたが、時間が足りずもう少し描いてほしかったなと残念に思っていたので、ここで親子の絆が戻るエピソードが入ってきたのはとても感動的でした。本当はもう少し丁寧に描く時間も欲しかったけどね(まぁ、篤二の所業はあまりドラマにできるようなものじゃないと思うけど 苦笑)。

その後も余震は続き、みんな一様に不安な夜を過ごしていました。しかし、栄一だけは布団を敷いていびきをかいて気持ちよさそうに眠っていたw。これ、実話だそうですね。不安だった周りの人たちも、栄一のマイペースっぷりをみて怯える気持ちも少しは紛れたのではないでしょうかw。

翌朝から栄一は精力的に動き始める。

家を焼き出されてしまった人たちのために飛鳥山邸を開放し米を取り寄せ炊き出しをおこなうため娘たちに指示を出したりしている。
義理の息子の芳郎から、殺されてしまった原首相の代理として前の外務大臣が指揮を執っていることを伝えられた栄一は安堵の色を浮かべていた。さらに多くの人を救うため、飛鳥山邸を避難者のための救護所にすることを伝えてほしいと彼に伝言を託す。

栄一もすぐその後を追おうとしますが、それを息子たちは必死に止めようとしました。関東大震災後の町は混迷を極めていて、焼け出された市民が過激な社会主義者に先導されて裕福な者を襲うという噂も飛び交っていた。栄一もまさにその標的となりかねない。そりゃ、危ないから行くなと止めたくもなるよね(汗)。しかし栄一は「何をバカなことを!!」と彼らを一喝する。

「私のような老人はこんな時にこそわずかながらに出も働いてこそ、生きる申し訳が立つんだ!!」

血洗島に帰っていたほうがいいと心配する息子たちに「そんな卑怯なことできるか!」とまで言い放つ80過ぎの渋沢栄一、本当にすごいおじいちゃんだよ。なかなかそんなこと言える人いないと思う。自分の命を人のために役立てたいという気持ちが強かったんでしょうね。
呆気に取られて返事が曖昧になった息子たちに「声が小さい!!」と指摘する場面は面白かったw。最後の「はい」はアドリブだったかもね(笑)。

篤二は意気盛んに人のために尽くそうとする父の背中を満足そうに見つめながら「あれが渋沢栄一だ」と微笑みました。もっと早くこんな風に栄一のことを理解することができれば、篤二もあんな堕落した人生を送らずに済んだかもしれないのにね…。

ロンドンにいた敬三夫妻の元にも渋沢家のみんなが無事であるという知らせが届いていました。遠く離れた場所にいたためどうすることもできなかっただろうから、敬三たちはさぞ心配したことと思います(とある新聞には「富士山が大爆発して日本が沈んだ」というデマまで掲載されていたらしい 汗)。
妻の登喜子と抱き合いながら喜んでいる姿がなんだかとても微笑ましかった。二人は恋愛結婚ですからあの密な距離感も自然に生まれたのでしょう。

飛鳥山邸には様々な場所から次々と救護物資が運び込まれてくる。特にアメリカの食品メーカー・ハインツ社からの大量の缶詰は目を惹きます。栄一はアメリカを周った際にハインツを創業した社長親子とかなり親しくなったそうですから、そのご縁ということでしょう。
そのほかにも栄一が電報を送ったアメリカの友人や知人たちから多くの支援の手が差し伸べられている。そのことに栄一は「友とは有り難いものだ」と感無量の表情を浮かべていましたが、彼が真心を尽くして彼らと交流を重ねたからこその結果ともいえますよね。民間レベルでのこういう国同士の人脈を繋ぐことがいかに大切かということを改めて教えられた気がします。

しかしアメリカでは依然として低賃金で働く日本人への風当たりはキツく…、議会では「排日移民法」という日本人に対する差別待遇を推進する案が通過してしまう事態に。これを受け、日本人も黙ってはいない。町のあちこちでは過激な先導者が「これは戦争を仕掛けられていることと同じだ」と集まってきた人たちを扇動し始める。次第に「米国討つべし!!」といった声が大きなうねりとなって広がっていく…。

アメリカ憎しの集会を目にした栄一は、無言のままその場を静かに立ち去っていきました…。これまで何度も渡米して日米友好のために力を尽くしてきただけに、その努力が水の泡と化した現状を目の当たりにしてさぞかし大きな落胆を覚えたことでしょう。去り際の栄一の小さな背中が泣いているように見えて本当に切なかった(涙)。

大正14年(1925年)、ロンドンにいた敬三夫婦に待望の長男が誕生。栄一はその子に「雅英」という名前をつけたいという内容の手紙を送っていました。
この雅英さん、現在も御健在でドラマの最後の紀行にも登場されていました。大河ドラマの主人公を知る方…しかも血を継いだ方が出られたことに感慨深いものを感じたなぁ。

敬三は雅英が生まれたことをきっかけに日本に帰国。飛鳥山邸を訪れると、栄一が椅子に座りながら長い手紙を読んでいました。この年から栄一は体調を崩すことも多くなったようで、だいぶ老け込んでしまったように見えました。

ちなみにドラマには登場しませんでしたが…、栄一が読んでいた手紙には「徳川慶喜伝」を読んだ人物からの感想が綴られていたようです。その人は栄一が一橋家家臣として岡山に赴いた際に歩兵として取り立てられた過去があった人物だった。
維新後は慶喜の謎の行動で肩身の狭い想いをすることも多かったけれど、「徳川慶喜伝」を読んでようやく気持ちが楽になったという想いが書いてあったのだとか。それを読んで「書いてよかった」と栄一は安堵の表情を浮かべていたのです。おそらく時間の関係でこの部分がカットされてしまったのかと…。

敬三は祖父の傍らに座り、「生物を研究する夢はかないませんでしたが、今、おじい様を深く知りたいと思っております」と告げる。それは、栄一が慶喜を知りたいと思っていたことと同じだと真っ直ぐな瞳で伝えてきた敬三。
孫の人生を狂わせてしまったかもしれないと思っていたこともある栄一としては、こんなことを言ってもらえて嬉しかっただろうね。その感謝の気持ちを「解剖だけはしないでくれよ」とユーモアある言葉で伝えていたのがとても印象的でした。

長くなったので(今回は特に 汗)続きは次のページにて。

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