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「鎌倉殿の13人」ゆかりの地レポート -木曽義仲・今井兼平-

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2022年度大河ドラマは三谷幸喜さん作の『鎌倉殿の13人』です。ドラマに関しては…個人的には好きなテイストではないのですが(苦笑)、鎌倉時代についてはかなり高い関心を持っています。

GW期間中に大河に出演した人物ゆかりの地をいくつか訪ねることができたので、紹介していきたいと思います。

『鎌倉殿の13人』ゆかりの地レポ一覧

2022年4月24日放送の「伝説の幕開け」では、頼朝と対立していた木曾義仲が義経・範頼軍との戦いに敗北し粟津原で命を落とすエピソードが放送されました。

青木崇高くんが演じた義仲は男気に溢れていてとても魅力的でしたね。

木曽義仲の父親は、源頼朝・義経兄弟の父である義朝の弟の義賢です(頼朝と義仲は従弟関係)。やがて義賢は父・為義や兄と対立を深め、甥の攻撃を受け討死してしまいました(大蔵合戦)。幼かった次男の駒王丸は木曾の中原氏に預けられ、後に「義仲」として成長することになります。
余談ですが、大河ドラマで宗時を演じていた片岡愛之助さんは義賢をモデルとした歌舞伎の演目「義賢最期」を以前よく演じていて、派手な立ち回りは大きな話題を呼んでいました。

源頼朝は勢力を伸ばしつつあった義仲を危険視していたようです。俱利伽羅峠の戦いで平家を打ち破り京に入るも、皇位継承問題などで後白河法皇側と対立してしまうことになった義仲。さらに功績のあった自分よりも頼朝を重用しようとする法皇に不信感を募らせ、ついには御所を襲撃してしまいました。

1184年に源氏初の「征夷大将軍」に任命された義仲でしたが、法皇救出の名目で頼朝が派遣した義経・範頼軍と戦闘状態へ(宇治川の戦い)。京での粗悪な振る舞いが災いしてか兵の数で圧倒的不利だった義仲軍は敗北を重ねていきます。義仲は生き残った七騎の者と共に琵琶湖までなんとか落ち延びますが、ついに死を覚悟し共に戦った巴御前を逃がすべく説得し、今生の別れを告げました。

最終的には今井兼平と二人きりになったという木曽義仲。自害すべく粟津の松原へ向かいましたが、兼平の様子が気になり後ろを振り向いた時…、敵の矢を受け命を落としてしまいました(馬が田んぼにハマってしまったのも致命的だったらしい)。それを見届けた兼平は、もはや守るものは無しと壮絶な自害を遂げたとのこと…。

ちなみに、私のなかで一番色濃い印象として残っている義仲は水曜時代劇『武蔵坊弁慶』佐藤浩市さん(浩市さんは「鎌倉殿~」で上総介を演じられました)です。巴は大地真央さんが演じていました。浩市さんの義仲は本当にカッコよかった…!!

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義仲寺(滋賀県大津市)

創建についてハッキリとした時期は不明とのことですが、粟津原の戦いで命を落とした木曽義仲のお墓近くに巴御前が草庵を結んだことが始まりと言われているお寺です。

アクセス

駐車場はないので車で行く場合は近くのコインパーキングに停めましょう。入館料は大人300円・小人100円です。

巴御前は木曾義仲の”愛妾”だったと言われている女性(妻ではないとのこと)。ハッキリとした出自は不明であるものの、幼い義仲が預けられた先の中原兼遠の娘という説が有力なようです。
確かな史料はないものの、愛する義仲と共に戦場で勇猛果敢に戦った女武将として名高い女性。
粟津原の戦いで死を覚悟した義仲から今生の別れを告げられた巴御前は、離脱後に和田義盛に捕らえられその妻となったという説もありますが(ドラマでも描かれてた)、それはあまり信憑性がないようです。

境内はこじんまりとした雰囲気ですが、素朴なお庭がとても美しいのが印象的でした。

本堂は「朝日堂」と呼ばれています。

向かって左側に義仲と最期まで運命を共にした今井兼平のご位牌が安置されています。右側には義仲と非業の死を遂げた息子の義高の木造が納められているとのこと(普段は非公開)。

平家を京から追い出した木曽義仲は「朝日(旭)将軍」と讃えられました。しかし、その後頼朝に派遣された義経・範頼軍に無念の敗北。征夷大将軍に任ぜられてからわずか1年後のことだったとか…。「朝日堂」の「朝日」は義仲が「朝日将軍」と呼ばれていたことに由来しています。
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木曾義仲の墓・巴御前の塚

木曾義仲の墓は境内入って少し奥に進んだところにあります。

何度か荒廃を繰り返していたようですが、1680年代後半頃にあるお坊さんが周囲に呼びかけ塚の上に新たな宝篋印塔の墓を建立し今に至るそうです。

義仲の墓のすぐ脇に「巴塚」という少し小さな石碑がありました。

義仲を弔った巴御前を供養するために建てられたようです。説明版には粟津原の戦いの後和田義盛の妻になり、義盛亡き後も91まで生きたとありましたが…その真相は定かではありません(義盛との間に朝比奈義秀を産んだとも言われています)。

巴御前が一番愛していたのは木曾義仲だったのではと思いたいので、義仲の墓の隣に塔がひっそり建っていたのを見て少しほっこりしました。

ちなみに、義仲寺の門の隣には「巴地蔵」があります。

巴御前を偲ぶためのお地蔵様。今でも現地の方たちに慕われているそうです。

ちなみに、入口入って左奥に「山吹供養塚」と呼ばれる小さな塚がありました。

山吹とは義仲の妻と言われている女性で(妾の可能性もあり)、義仲の死を知ったのち自害した(もしくは捕らわれた)と伝わっているそうな…。大津駅前には地蔵尊を祀った祠があるとのこと。かつては供養塚も同じ場所にあったようですが、大津駅移築の際に義仲寺へ移されたそうです。
巴と違い病弱で都に残ったという山吹御前。夫亡き後哀しい運命を辿ったのかと思うと切なくなりますね…。

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松尾芭蕉の墓

義仲の墓から少し離れたところには松尾芭蕉のお墓があります。

生前は木曽義仲への想いが熱かったことから何度もこの寺を訪れていたそうです。「亡くなった後は義仲の隣に葬ってほしい」と遺言したほど義仲ファンだったという松尾芭蕉。没した地は大坂でしたが、師匠の遺志を尊重した弟子たちの配慮によりこの地で永久の眠りについています。

義仲とはかなり近い位置に芭蕉のお墓があります。本当は真隣あたりが良かったかもしれないけどw、これだけ近かったら芭蕉もさぞ喜んでいることでしょう。

境内には様々な句碑が建てられていて(全部で19あるらしい)とても風情がありました。

芭蕉のお墓の前には「翁堂」という小さなお堂があります。

このお堂の中に松尾芭蕉の坐像が安置されています。

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入口入ってすぐのところにある資料館には松尾芭蕉ゆかりのものが展示されていました。

なかなかに貴重なものが展示してあってビックリ!

義仲と兼平の最後の様子を描いた絵画の横に、松尾芭蕉の絵画。ここでもお隣同士。本当に義仲に夢中になっていたんだなぁと微笑ましく思ってしまう。

そのほかにも見所の多い義仲寺。美しく素朴な景色の中に溶け込んでいる史跡やお墓に癒されます。

次のページでは最後の最後まで木曾義仲と運命を共にした今井兼平のお墓について紹介します。

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