PR

「鎌倉殿の13人」ゆかりの地レポート -源義経の腰越状(満福寺)-

スポンサーリンク

2022年度大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。ドラマとしては個人的に好きなテイストではないのですが(汗)鎌倉時代前後が取り上げられ注目されていることには非常に大きな関心を寄せています。

GW期間中に大河に出演した人物ゆかりの地をいくつか訪ねることができたので、紹介していきたいと思います。今回は、源義経が頼朝に釈明文を書いたと伝わる寺・満福寺(鎌倉市腰越)について。

『鎌倉殿の13人』ゆかりの地レポ一覧

満福寺(源義経の腰越状)

満福寺は744年(飛鳥時代~奈良時代)にかけて活動した行基によって開山された歴史の古いお寺です。

壇ノ浦で平家を滅ぼした源義経は意気揚々と京都に凱旋し、捕虜となった平宗盛・清宗親子を移送するために鎌倉へ向かいました。ところが、鎌倉まであともう少しというところで義経は足止めを食らってしまいます(ストップを告げたのは北条時政)。この理由についてはいくつかの説が唱えられています。

  1. 梶原景時が戦の時の義経の態度を根に持って告げ口したから
  2. 頼朝の許可を得ずに後白河法皇から勝手に検非違使の役目を引き受けてしまったから
  3. 壇ノ浦の戦で宝剣を失ったから

この3つの説はよく聞くことで、2022年5月8日に放送された『鎌倉殿の13人』第18回でも描かれていました。義経からしたら寝耳に水みたいな出来事で悪い事をしたという自覚がないわけで、このあたりのすれ違いが後の悲劇に繋がっていくと思います。

頼朝の怒りを買っていることを知った義経は、兄に向けて嘆願文「腰越状」を記しました。その場所が滞在していた”満福寺”と伝わっています。

アクセス

拝観料は大人200円。中学生100円。それ以下は無料。
お寺の境内に車3台分くらいなら停めるスペースがあります。が、けっこう狭い坂道を行かなければならないので運転の難易度はけっこう高いほうかも(汗)。 江ノ電の腰越駅からは線路を渡ってすぐなので行くときには電車を使ったほうがいいかもしれません。

お寺の坂を下りるとすぐ江ノ電の踏切があります。腰越駅はそのすぐそば。

スポンサーリンク

実は中学まで片瀬に住んでいたので、満福寺の存在は前々から知っていました。水曜時代劇ドラマ『武蔵坊弁慶』で義経と弁慶の話に魅了された時からこのお寺にはずっと行ってみたいと思っていたのですが、結局一度も敵わずじまい。あれから約35年を経てようやく訪れることができたので本当に感無量の心境でした。

本堂の中の義経の生涯を描いた襖絵は美しく見応えがありました。鎌倉彫の技法を取り入れた漆画で描かれているのだそうです。

本堂入り口脇には義経と弁慶の像を見ることができます。

満福寺に残されている「腰越状」は弁慶が義経の代わりに下書きをしたものだと伝わっているので、それをモチーフにしたものだと思われます。真新しさがあったので最近できたものなのかな?

また、お寺の欄干をよーーーく見てみると…

中央部分に義経と弁慶の姿が彫られていました。これはけっこう盲点かも!訪れた時にはぜひ発見していただきたい。

スポンサーリンク

満福寺に残されているのは、弁慶が書いた嘆願書「腰越状」の下書きだと伝わっています。ついに、ご対面ですっ!!

ガラスの中で保管されているのでなかなかうまく撮影できなかったのですが(汗)、かなり綺麗な状態で残されているのを見て胸が熱くなりました!ずっと見てみたかった書状なので本当に感動…。想像していたよりもかなりの長文だったのが印象的。流れるような字がとても奇麗。

弁慶の肉筆とされており、義経が筆入れした痕跡も見られるとのこと。これが本物なのかどうか真偽の程は未だに議論があるそうですが、私は本物だと信じたい…。この文から当時の義経と弁慶の心情が感じられる浪漫を大切にしたいなぁ…なんて。

捕虜を連れて鎌倉の兄・頼朝との対面をしにやって来た義経でしたが、あと一歩というところまできて腰越の地に留め置かれる事態になってしまいました。何とか兄の誤解を解きたいと思った義経は、大江広元に宛てた嘆願文を書くに至ります(腰越状)。この時、弁慶が下書きしたとされる文章が満福寺に残っているわけです。

腰越状には、なぜ兄の望んだとおりに平家を滅ぼしたのに褒められるどころか疎まれなければならないのかといった義経のもどかしい気持ちが記されています。「あらぬ告げ口があったらしい」という文面もあることから、梶原景時のことを疑いの目で見ていたことも伺えるんだよなぁ(汗)。
その後は、いかに自分が兄を慕い懸命に戦ってきたかを切々と訴える文章が続きます。そして野心など微塵もないことを述べた後で、差出人である大江広元に対し「あなたの情けの心を以て頼朝に義経の心情を伝えていただきたい。疑いが晴れた暁には、そのご恩を一生忘れることはないでしょう」と結んでいました。

「腰越状」の原文と現代訳+解説は、お寺で購入することができます(たしか100円程度)。
スポンサーリンク

嘆願書を受け取った大江広元は頼朝に見せることなく処分してしまったのではないかと伝わっているらしい(汗)。つまり、頼朝はこの文の内容を読んでいないとのことで…ますます義経への不信感を募らせる結果になってしまったそうな。

頼朝が最も腹を立てたのは、義経が無断で後白河法皇から”検非違使”の任務を引き受けてしまったことだと思うので(義経に権力が集まるのを恐れたとも言われています)、手紙を読んだとしても見当違いのことばかりが連ねてあることから許すつもりはなかったかもしれないなと思いました。

第19回で、義経が頼朝から伊予守に任命されたものの後白河法皇に「検非違使も兼ねよ」と圧を掛けられたエピソードが出てきました。現在では、頼朝が義経を一番許せなかったのは法皇に従って検非違使の任を辞さなかったことという説が有力視されているようです。

大河ドラマ「鎌倉殿~」での義経は、これまでのイメージとはかなり違ったテイストで描かれていたので正直驚いたしちょっと受け止められないというのが個人的な感想(汗)。

「腰越状」が本物かどうかわからないといった観点からか、捕虜になっていた宗盛が代筆するという流れになったのは特に驚いた(汗汗)。っていうか、義経は不貞腐れているだけで釈明しようとか全く思ってない様子だったし(苦笑)。

それから、大江広元は堂々と頼朝に文を見せてしまってましたねw。それを読んだ頼朝はあっさりと「これは義経が書いたものではない」と見破り怒りを募らせてしまい、宗盛と一緒に京へ戻れと言い放ちました。まぁ、このあたりのやり取りは無くはないかなと思ったけど…。

今回の義経の描き方はあまりにも破天荒が前面に出過ぎている印象が強くて、とても「腰越状」を書こうと思う人物には思えない(汗)。だからこその宗盛任せみたいな展開にしたんだろうけど。
菅田くんは熱演しているけど、私はどうしても今回の義経は好きになれなかった。ああいう一面もあったからこそ敵を作りやすかっただろうというのも分かるけど、ギラギラしすぎて純粋さが見えてこない(野心あるんじゃね!?とも 苦笑)。感情移入が一度もできないまま終わりそうなのは非常に残念。

スポンサーリンク

今回の大河では脇役扱いで殆ど出番がないまま終わりそうな弁慶ですが(北条義時が主役だから仕方ないけど 苦笑)、満福寺にはゆかりの史跡をいくつか見ることができます。

弁慶の腰掛け石(この上に弁慶が座った…かもしれない石)

弁慶の手玉石(弁慶が手玉に取ったと伝わる石)

硯の池(弁慶が腰越状を書くときに硯のための水を汲んだと伝わる池)

腰越状草案について、弁慶とコオロギの不思議な伝説が残されています。弁慶が「腰越状」を書こうと墨をすっていた時にコオロギがうるさく鳴いていたので「やめろ!」と一喝しました。するとコオロギはぴたりと鳴きやんでしまい、それ以来今でもこの寺の境内では一度もその鳴き声が聞こえなくなったとのこと。
これが本当の話だとしたら…弁慶、どんなスピリチュアルパワー使ったんだ!?と思ってしまいます(笑)。それだけカリスマ性があった人物ということでしょう。

義経公手洗いの井戸

スポンサーリンク

弁慶が使ったと伝わる「椀」

上の方が少し欠けているところがなんとも味わいがあって浪漫を感じます。この椀に弁慶が触れていたのではと思うだけでもワクワクしました。

余談ですが…、「鎌倉殿~」では源平合戦のなかの”屋島の戦い”がほぼスルーされてしまいました(予想してましたが 苦笑)。香川に住んでいた時にゆかりの地を巡ってレポしているので、興味がありましたら覗いてみてください。

ちなみに、第18回放送で源平最後の戦いである「壇ノ浦の合戦」が登場しましたが、安徳天皇入水のシーンがこれまでとは違った描かれ方をしていてちょっと驚きました。

通説では、清盛の妻で庵特定の祖母に当たる二位尼(時子)に抱かれて「波の下にも都はございましょう」との言葉と共に海へ飛び込み亡くなったとされていました。が、今回は二位尼は三種の神器の宝剣のみを抱いて海に飛び込んでいて、安徳帝を抱いていたのは母親である建礼門院徳子(清盛の娘)と思しき人物でした。
建礼門院は着物のせいで浮いてしまい源氏に引き上げられて助かったと言われている人物なので、息子の安徳帝と一緒に沈んでしまったと受け取れるような映像にはかなり違和感がありました(汗)。

源平の戦いの展開については、違う作品で見直したいかなと…。

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました