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「青天を衝け」渋沢栄一ゆかりの地 ー東京都北区飛鳥山公園②・旧渋沢庭園-

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大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一ゆかりの地である東京都北区飛鳥山まで行ってきました。今回は、渋沢栄一が過ごした場所に纏わる場所を中心にレポしていきたいと思います。

飛鳥山レポその①はこちら↓

旧渋沢庭園への入口は、大河ドラマ館(飛鳥山博物館)のすぐ近くにあります。

かつては本邸やそこにつなぎ合わせた日本館や西洋館など多くの建物が点在していたそうですが、昭和20年の空襲被害を受けてほとんどが焼失してしまいました…。現在は、「晩香廬」「青淵文庫」の建物のみが残っています(どちらも国指定重要文化財に指定)。

※大河ドラマ館レポはこちら↓

アクセス

大河ドラマ『青天を衝け』感想はこちら↓

青天を衝け
青天を衝け
2021年度NHK大河ドラマ『青天を衝け』の感想レビュー

「青天を衝け」渋沢栄一ゆかりの地 -東京都北区・飛鳥山レポその2-

茶室「無心庵」跡

1899年(明治32年)に茶室「無心庵」が建てられました。その入り口には大きな門があったようで、現在もその礎石が残されています。

門から奥に続く飛び石も当時のまま残されていました。

この石の上を渋沢栄一も踏みしめていたのかと思うと何とも感慨深いものがあります。

門の跡から少し先に進んでいくと、待合だった場所を示す看板がありました。

腰を下ろすだけの簡素な場所だったようですが、この場所で気持ちを落ち着かせてから茶室へ赴くという役割を担っていたとのこと。その名残となる礎石が当時のまま残されています。すぐ近くには、可愛い茶道具が描かれている灯篭も佇んでいます。

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そこから少し先に進んだところに茶室「無心庵」があった敷地があります。空襲で焼けてしまったことが本当に悔やまれますが、当時からあったと思われる手水鉢が残されていて当時を偲ぶことができました。

栄一は徳川慶喜の名誉回復を図るため「無心庵」で慶喜と伊藤博文や大隈重信との面会を実現させたという逸話が残っているそうです。その茶席でのやりとりがきっかけとなり、明治35年に慶喜は公爵の位を授けられたとのこと。栄一の慶喜に対する熱い想いを感じさせるエピソードだと思います。

無心庵跡のさらに奥まで進んだ東側の崖の斜面にはかつて「月見台」があり、製紙工場や田園風景など絶景の眺めを楽しめたことからここに多くの客人を招いていたそうです。礎石も残っているようでしたが、雨で足元が悪かったこともあり確認することができませんでした(汗)。

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青淵文庫

青淵文庫は1925年(大正14年)、渋沢栄一の傘寿(80歳)と子爵になったことののお祝いに弟子たちから寄贈された建物です。煉瓦と鉄筋コンクリートによる2階建て構造になっています。建設中に関東大震災に遭い納める予定になっていた書籍が全て燃えてしまったとのこと…。

「青淵」とは渋沢栄一の雅号で、従兄弟の尾高惇忠から名付けてもらったと言われています。

正面の窓の上には美しいステンドグラスが装飾されたガラスや、シャンデリアがあるのだとか。外からは、ステンドグラスだけは確認できました。本当ならぜひとも中に入って見学してみたかったのですが…

完全予約制ということに気づいたのが2日前くらいでして…チェックしたらすでに行く予定だった日は埋まっておりました(苦笑)。これはもう、私のミスなので仕方がない。立派な外観を見れただけで満足することにしましたw。

建物の横には、創建時にテラス部分に使われていた露台の基礎や、露台の下の部分から発掘された”まぐさ”と呼ばれる控室に使われたと思われる部材が展示されていますので、こちらも注目して観てはいかがでしょうか。

また、渋沢は青淵文庫の庭園で多くの賓客(蒋介石などの大物まで)をもてなしました。

その時に歩いた”へこみ”が今も残されています。

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晩香廬

晩香廬は渋沢栄一の喜寿(77歳)を祝って1917年(大正6年)に清水組(後の清水建設)が長年の感謝の気持ちと労をねぎらう意味で贈った建物だそうです。三井組ハウス(ドラマでは強引に第一銀行にさせられてましたが 汗)のときも清水組が建築に携わっていましたね。

とても趣のある落ち着いた建物で、栄一もこの建物を大変気に入っていたそうです。名前の「晩香廬」は自作の漢詩の一節から取ったとのこと。中にも貴重な品々を見ることができるようでしたが…残念ながらこちらも”完全予約制”になっていて、チェックしそびれた私はまたもや外見だけ眺めるしかありませんでした(苦笑)。

戦火を潜り抜けた建物が「青淵文庫」と「晩香廬」の2棟だけだったというのが切ないですねぇ。戦時中にはもう栄一はこの世にはいなかったわけですが、焼けてしまった貴重な建物の数々のことを想って草葉の陰で悲しんでいたに違いありません。

渋沢栄一の銅像は晩香廬のすぐ近く、公演の出口付近にあります。

渋沢の身長は約150センチだったそうですから、だいたい私と同じくらい。その小さな体でとてつもない大きなことをやり遂げたすごい人なのです。

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山形亭跡

青淵文庫の前に広がる庭の奥に目を向けると、「山形亭跡」と書かれた看板がありました。六角形の台の上に自然僕を組み上げた柱で、帽子のような屋根を支えた建物だったことから別名「六角堂」として親しまれたそうです。こちらも戦火で焼失してしまったそうで、鉄製の灯篭のみが佇んでいました。

兜稲荷神社跡

かつては東京日本橋兜町の第一銀行の敷地内にあった洋風の珍しい社でした。明治30年の第一銀行改築の折に、飛鳥山の現在の場所に移されてきたとのこと。もともと第一銀行の建物は三井の為替座として運用予定だったため、三井の守護神である向島の三囲神社から分霊し「兜社」として敷地内に祀っていました(三井組ハウスが第一国立銀行に引き継がれる過程はドラマでも放送されていました)。

昭和40年代になると社の破損が激しくなりほとんどが取り壊されてしまったとのこと。お使い狐灯篭手水などは当時のまま残されています。

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旧渋沢庭園で回れたのはこのくらいです。雨が降っていたことや帰りの飛行機の時間を気にしながらの散策だったのでちょっと雑になってしまったかも(汗)。次回機会があればもう少しゆっくり回ってみたいです。

ちなみに、飛鳥山公園にはSLの展示ゾーンもあります。

この日は雨で誰もいませんでしたが(汗)、普段はこのあたりで市民の方やお子さんが遊んでいる姿が見られるのではないでしょうか。ドラマのロケに使われることもあるそうですよ。

公園内に咲いていた秋の桜「十月桜」が雨に濡れていて、なかなかに風情があり奇麗でした。

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