2022年度大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。妙な笑わせようとしてくるシーンは好きじゃないのですが(汗)鎌倉時代前後が取り上げられ注目されていることには非常に大きな関心を寄せています。
GW期間中に大河に出演した人物ゆかりの地をいくつか訪ねることができたので、紹介していきたいと思います。今回は、北条義時との激戦で命を落とした和田義盛と和田合戦について。
『鎌倉殿の13人』ゆかりの地レポ一覧
和田合戦について
和田義盛は鎌倉幕府の有力御家人で、源平合戦の時も早くから源頼朝に仕え活躍し信頼を得ていた武将。大河ドラマでは横田栄司さんの豪快な熱演が大きな話題を呼びました。
イカつい外見ながらも純粋で、どこか空気が読めず単純思考的なところのあるキャラクター。だけどそれが愛らしくて疲れた時の癒しどころのような温かみのあるお芝居がとても魅力的だったな。
横田さんが大河に出演するのは今回で3回目ですが、この和田義盛役が一番多くの人の記憶に刻まれたのではないかなと思います(個人的には「麒麟がくる」の水野役も好きだったんですけどね)。
3代目の鎌倉殿となった源実朝の時代、執権として大きな権力を握ることになった北条義時の強引な政治権力に和田義盛は不満を抱くようになっていました。義時自身も、侍所別当として幅を利かせている義盛が鬱陶しく邪魔な存在として認識するように…。
北条と和田の関係にヒビが入り始めた頃、泉親衡という人物が実朝や執権である北条を排し頼家の遺児(千寿丸)を鎌倉殿に据えるため謀反を起こす事件が勃発。大河ドラマで親衡は謎多き人物として描かれていました(後鳥羽上皇の間者みたいな感じだったな)が、実際は鎌倉幕府の御家人の一人だったとされているようです。
反乱は程なく制圧され計画は失敗に終わってしまいますが、この時に和田義盛の息子や甥が戦に加勢していたことが明らかにされました。ちなみにドラマには出てきませんでしたが、捕らえられた中には上総広常の甥や八田智家の息子も企てに加わっていたとのこと。八田の息子は後に許され承久の乱で活躍したそうです。八田は早くから北条寄りだったことが功を奏したのでしょうか(汗)。
義盛はなんとか息子たちの罪を許してほしいと実朝に直訴。二人はかねてより良好な関係を築いていたこともあり、実朝は義盛に同情的でその願いを聞き届けることにしました。が、甥の和田胤長だけは反乱の中心人物だったことが発覚していたことから許すわけにはいかないという事態に…。
胤長は屈辱的な姿で和田一族の前に晒され遠方に流罪とされますが、このことで大きく自尊心を傷つけられた義盛は処分決定を下した執権・北条義時に強く恨みを抱くようになったそう…。この出来事は義時が義盛を滅ぼすための口実を作るために演出した挑発であったのではと言われています。
さらに、流刑で主人がいなくなった胤長の領地は一旦は義盛に譲渡されることが決められますが、そのすぐ後に義時が勝手に覆し自分の部下に分配してしまうという事件が発生。ここまでされてしまっては、義盛の怒りが沸点まで行ってしまう気持ちもよく分かります(汗)。義時の執拗な嫌がらせ…恐るべし。
その後義盛が謀反の準備をしているという噂話が飛び交い(逃げ出してしまった実朝の近臣だった孫の朝盛を取り戻す騒動がきっかけらしい 汗)、1213年5月ついに挙兵が現実のものに。
2日間にわたって鎌倉で和田と北条が激戦を繰り広げたエピソードは大河ドラマ第41話で描かれました。
北条に不満を持つ一族や親戚関係にあった三浦義村を味方につけ戦に臨むつもりだった義盛でしたが、義村ら三浦一族は寸前になって裏切り北条方についてしまいます。大河ドラマでも三浦の裏切りは描かれていましたね(フィクションだと思うけど、義盛が気づいていながら義村の裏切りを見逃したのが切なかった…)。義時と義村が裏で通じていた可能性は高いと思います。
大河ではフィーチャーされていませんでしたが、史料によればこの戦いで一番活躍したのは和田義盛の三男の朝比奈義秀だったとのこと。獅子奮迅の戦いっぷりで多くの有力武将を次々と倒したそうです。ちなみに、大河ではちょっと情けない義時の息子として描かれていた北条朝時とも対峙したそうで、彼を退却に追い込んだというエピソードもあるらしい(ドラマでは泰時のアイディアに一役買って名誉挽回してましたが)。
時間の経過により次第に数的不利に追い込まれてしまう和田一族。いったん由比ガ浜に退いて体勢を立て直すことになりました。
大河では由比ガ浜で義盛と巴御前が最後に語らうシーンが印象的でした(ドラマのフィクションですが)。
武蔵国からの援軍を得た和田軍は再び北条軍に立ち向かっていきますが、形勢は不利のまま追い詰められてしまいます。そして2日目の夕刻、義盛の最愛の息子である和田義直(朝比奈義秀の弟)がついに討ち取られてしまう悲劇が…。義盛はショックのあまり大号泣し「今は戦う甲斐もなし」と叫び戦意を失ってしまったと言います(涙)。それを好機と見た北条方の大江義範軍に襲われ命を落としました。
大河ドラマでは、義盛と意気投合していた実朝が実際に説得に当たり戦意を失ったところを三浦一族の矢に撃ち抜かれて絶命という衝撃的なシーンとして描かれましたが、これはドラマならではのフィクションだと思われます。義盛と実朝は実の親子または兄弟のように親しい間柄として描かれる場面が多かったですから、最期については和田の身内と絡めて描くのは難しかったのかなと…。
義盛亡き後、息子たちも次々と討ち取られ援軍に訪れた者たちも慌てて逃げ去ってしまったとのこと。唯一、戦場で大きな武功を上げていた三男の朝比奈義秀だけは消息不明とされていて、遠方へ逃げ延びることができたのではと言われているそうです。
和田一族はほぼすべて壊滅に追い込まれ、合戦後には見せしめとして固瀬川(現在の境川)に230以上の首が晒されていたと言います…(震)。
和田義盛が就いていた侍所別当は北条義時が引き継ぐことになり、北条氏はこれまで以上に鎌倉幕府のなかで大きな権力を握ることとなりました。
和田塚
和田一族が北条によって滅ぼされた和田合戦。その激戦地となった由比ガ浜にほど近い場所に和田一族の供養塔が並ぶ「和田塚」があります。
供養塔が建てられたこの場所はその昔「無常堂塚」という古墳があったという説もあるようですが(埴輪や石棺が発掘されてるらしい)、ハッキリしたことは今も分かっていないそうです。
明治の道路改修の時にこのあたりからたくさんの人骨が発掘されたとのこと。なかには刀を握ったままの骨もあったのだとか…。和田合戦の犠牲者である可能性が高いことから「和田塚」と名付けられた由来があります。
敷地正面には比較的新しい「和田一族戦没地」という墓石が建てられています。この場所一帯に義盛をはじめとする多くの犠牲者が埋葬されたと伝わっているそう…。向かって右側に佇む三角の石碑には「和田一族之墓」と刻まれていました。
正面左側少し奥に視線を向けると、「和田義盛一族之墓」と刻まれた碑があります。
義盛とその家族(戦場で散っていった息子たち)を弔うための墓石だと思われます。塚の整備をしたとされる明治期に建立されたのだとか。石碑の前にはお酒とお花が備えられていました。
さらにその後ろに回ってみると、いくつかの小さな五輪塔が並んでいます。
くっつくように並んでいる石碑の姿は、当時の戦の悲劇性を物語っているような気がしました…。
アクセス
江ノ電の鎌倉駅と由比ヶ浜駅の間にある「和田塚駅」から徒歩すぐの場所にあります。道幅が狭く駐車場もないので江ノ電で訪れることをお勧めします。
小さな石段を上った先に供養塔が並んでいました。旗も立っているので比較的わかりやすいと思います。
幼少期に江ノ電沿線に住んでいましたが、その当時は「和田塚」駅が和田一族の大きな悲劇に関わっているという認識が全くありませんでした(←歴史はどちらかというと苦手だったので 汗)。背景を知り、大人になった今改めて訪れたとき、身が引き締まる想いがしました。もっと前に知るべき歴史だったなぁと…。