2022年度大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。鎌倉時代前後が取り上げられ注目されていることには非常に大きな関心を寄せています。
GW期間中に大河に出演した人物ゆかりの地をいくつか訪ねることができたので、紹介していきたいと思います。今回は、比企能員のお墓がある妙本寺について。
『鎌倉殿の13人』ゆかりの地レポ一覧
比企能員の乱について
比企能員は源頼朝の乳母だった比企尼の養子で、初代鎌倉殿の頼朝と2代目鎌倉殿の頼家に仕えた有力御家人でした。頼朝亡き後は頼家を支えるための13人の合議制の一人にも選出されています。
1198年、能員は頼家の側室となっていた娘の若狭局(ドラマでは「せつ」)が嫡男の一幡を出産したことでますます権力を振りかざすようになり(能員は頼家の乳母父だった)、それを煙たがっていた北条氏との対立が激化していきました。
幕府内がピリピリした空気に包まれている最中(比企は頼家を呪い殺そうとしていた全成を始末する事件を起こしています←大河第30話)の1203年、源頼家が突然重い病に倒れてしまいました。
大河ドラマ第31話では、権力に固執した比企能員が北条とのいざこざの末に壮絶な最期を遂げるエピソード(比企能員の乱)が描かれました。飄々としながらも権力のトップに躍り出ることに執念を燃やす能員を、佐藤二朗さんがドス黒く魅力的に演じられていたと思います。
頼家が重病に冒されたことで跡継ぎ問題が表面化。比企は自分の血筋である頼家の嫡男・一幡を猛烈に推そうとしましたが、頼朝の次男である千幡(後の実朝)を推す北条氏の差し金によって待ったを掛けられることに(頼家亡き後の相続を一幡と千幡で分けるという案が宿老たちによって決められてしまう)。
怒った能員は娘の若狭局を通じて病床の頼家に結果を報告し強く抗議。一幡を跡継ぎに考えていた頼家もそれに同意し黒幕である北条時政の追討を命じました(ドラマでは頼家は意識不明で全くの蚊帳の外状態だったけど 汗)。
ところが、この密議を耳にしてしまった北条政子はすぐに父の時政に知らせます。時政から相談を受けた大江広元は「私は戦についてはよく分からないので、よく考えて決めたほうがいい」と助言。その言葉を”比企討伐OK”と解釈した時政は比企一族を滅ぼす決意をしたと言われています。
1203年9月、北条時政は「薬師如来の供養会があるので比企殿にも参加していただきたい」と誘い出します。能員は武装して行けば疑いを掛けられるとして平服姿で時政邸(名越亭)を訪問。そこを待ち受けていた仁田忠常らによって討ち取られてしまいました。
能員が時政邸を訪れた理由には、孫の一幡に主な役職が与えられると知った為だと伝えられています。安心して油断してしまったのですかねぇ…。
能員が討ち取られたことを知った残された一族は館に立てこもり抵抗。これに対し、「謀反」と捉えた政子は弟の北条義時を総大将とした討伐軍を向かわせます。激しい戦となったようですが、畠山重忠の軍が到着したことで勝負が決し、館に火を放たれたことで比企一族は滅亡してしまいました。
能員の娘で頼家の側室・若狭局(せつ)は幼い一幡と共に焼死したとも、義時の手の者に殺されてしまったとも、池に身を投げて自害したとも伝えられていますが詳細は不明とのこと(大河では善児と弟子のトウにやられたことになってました)。後味の悪い哀しい権力闘争の成れの果てだったなと…。
妙本寺
かつて比企屋敷があったとされる場所に比企能本によって「妙本寺」が建立されました。比企一族は乱によってほぼ殲滅されてしまいましたが、当時まだ2歳と幼かった能本は命を助けられ安房国への配流となります。
その後能本は順徳天皇に仕え承久の乱後には佐渡まで同行(順徳天皇は佐渡に流刑され失意のままその地で崩御)。頼家の娘である竹御所が4代将軍の九条頼経に嫁いだことを機に許され鎌倉に戻りました。
1253年に鎌倉の町で日蓮上人と出会った能本は、命がけで布教する姿に深く心酔し「比企一族の弔いを頼めるのはこの人しかいない」と決意、自分の屋敷を献上し法華堂を建てたと言われているそうな。それが現在の妙本寺に繋がるきっかけとのこと(日蓮が寺の名前を命名)。
総門をくぐりしばらく進んでいき石段を上った先の二天門をくぐると巨大な祖師堂が見えます。
想像していたよりもかなり広い敷地と立派なお寺があったので驚いてしまった。現在ある祖師堂は天保年間に再建されたものとのことで、鎌倉の中でも最大級のお堂なのだそう。ちなみに、かつてこのあたりに比企尼が居住していた屋敷があり、政子はこの地で頼家を産んだと伝わっています。
お堂から見る景色も非常に見応えがあります。この時期は特に新緑が美しく、鳥の鳴く声もよく聞こえて癒されました。
比企一族の墓
祖師堂を正面に見て向かって右側の奥に比企能員、および一族の墓(供養塔)があります。両脇の少し大きめな石塔には「本行院日学聖人」(創建者の比企能本)と「輪成院日教聖人」(祖師堂を再建した47代住職)の名前が刻まれていました。
中央に並ぶ4基の五輪塔は、無念の命を散らした比企一族(能員ほか約100名)のための供養塔と伝わっています。
比企一族の墓から少し前方(祖師堂からほど近い場所)に、一幡之君袖塚と呼ばれる小さな供養塔が建てられています。
比企能員の娘・若狭局の息子の一幡は「比企の乱」に巻き込まれ、館に火が放たれた折にわずか6歳で焼死したと伝わっています(暗殺説もあり)。焼け残った館跡からは一幡の小袖が見つかったとされていて、それを供養するためにこの地に塔が建てられました。
ちなみに、比企一族の墓の列奧(一幡袖塚の後ろ当たり)には前田利家の側室・千代保(加賀藩2代目藩主・利常の母)の供養塔があります。
かなり大きな五輪塔なのですぐ見つかると思います。
アクセス
最寄り駅はJRの鎌倉駅。東口を出て徒歩でだいたい15分くらいの場所にあります。拝観料は無料。9:00〜16:00までの間なら自由に入ることができます。二天門の傍に駐車スペースもありますが、多く停められない印象だったのでなるべく徒歩で訪れたほうがいいかもしれません。