「鎌倉殿の13人」ゆかりの地レポート -大江広元(鎌倉市)-

2022年12月18日に最終回を迎えた大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。これまであまり光が当たってこなかった鎌倉時代前後が取り上げられた貴重な作品だったと思います。
最初の頃は三谷脚本独特の雰囲気に違和感が多くて脱落しそうになっていたのですが(苦笑)、シビアな場面が多くなってきてからは見応えを感じついに最後まで完走。以前から興味を持っていたこの時代をがっつりドラマで見れたことは個人的に嬉しかったです。

GW期間中に大河に出演した人物ゆかりの地をいくつか訪ねたレポも今回がラストになります。最後は、13人のうちの1人で政治に長け最後まで鎌倉幕府のために尽力した大江広元について。

『鎌倉殿の13人』ゆかりの地レポ一覧

大江広元とは

大江広元は生年月日が定かではない謎多き人物(1148年頃の生まれと言われています)。大河ドラマでは「大江」姓で通していましたが、実際は中原広季に育てられた経緯があることから晩年の1216年頃まで「中原」姓を名乗っていたそうです。下級貴族の出身で朝廷に仕え実務経験を積んだのち、鎌倉で仕えていた兄・中原親能の伝手で頼朝の元へ。

頼朝からの信頼を得た広元は、幕府内の政務を取り仕切る初代政所別当に任命されます。朝廷と幕府とのパイプ役も任されるなど幕府内でも存分に手腕を発揮。都では思うような地位に付けなかったことのリベンジを鎌倉幕府で果たしたといったところでしょうか。頼朝の政治を支える大きな原動力として絶大な信頼を得ていたようです。

頼朝亡き後も冷静沈着、時には冷酷な政治判断を行いながら鎌倉幕府の中で大きな影響力を持っていきます。大河でも描かれた通り、比企の乱や頼家追放、畠山追討、和田合戦といった大きな歴史的分岐点で広元は大きな役割を果たしていました。義時の懐刀的な存在で政治的見地から彼を最後まで支え続けます。

大河ドラマでは栗原英雄さんが渋カッコイイ大江広元を大熱演!冷静沈着で感情に左右されずに厳しい決断を下し義時の権力増大に関わっていく姿は特に印象深かったです。ドラマ内では北条政子にちょっと”ホの字”なのか!?的な展開がありましたけど(←しかも「重すぎる」と一蹴されちゃうし 苦笑)、それ以外は見応え充分な存在感で素晴らしかった。
第43回放送時に登場した時、広元は目が見えないということになっていたのはビックリ。たしかに前回あたりで目を気にする素振りはありましたが、まさかそこまで悪化していたとは(汗)。どうやらこの頃眼病を患っていたそうですが、完全に失明してしまったということではなかったようです。でもそれに近かったかもしれませんね…。目の病気を患ってしまうほど激務をこなしていたということでしょう。

さらにちょっと驚いたのは第46回で出家していたこと。突然坊主姿で登場したので正直ちょいビビった。ドラマではそのあたりのことを何も描いていませんでしたが、どうやら眼病になった1216年と同時期くらい(翌年当たり)に出家し一旦政治からは距離を置いていたとのことです。

1221年に後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を出した時には、朝敵となることを恐れた御家人たちに対し真っ先に義時側に付いて戦うことを説得したと言われています(大河では政子の演説原稿を書いたくらいのニュアンスでしたが)。大江広元は誰よりも鎌倉幕府を一番に考えていた人物だったのかもしれません。
第47回放送時に政子の演説に感銘を受けたからか突然目がパッチリ開いたシーンはとても印象深かったです。栗さんが「クララが立った的な」みたいなことを呟いていたのはこのことだったのかもw!?(←イベントでこの件について語られたようですが、どんなことだったのかちょっと気になります)

「鎌倉殿の13人」推し活パワー!大江広元「政子の大演説」に“開眼”ネット泣き笑い「クララが立った」 - スポニチ Sponichi Annex 芸能
俳優の小栗旬(39)が主演を務めるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(日曜後8・00)は今月11日、第47話が放送され、ついに「北条政子の大演説」(1221年、承久3年)が描かれた。話題のシーンを振り返る。

冷静沈着で泣いたことがないという逸話(吾妻鏡)も残る大江広元は、最後まで鎌倉幕府に尽力を惜しまない人物でした。義時の死から1年後の1225年、病に侵されこの世を去ります。

ちなみに、大江広元は戦国武将・毛利元就の始祖にあたります。4月に行われた大江広元役を演じた栗原英雄さんの毛利庭園でのトークショーでもそのことに触れられていました。当時のレポもあるので興味がありましたらチェックしてみてください。

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大江廣元邸碑(大江広元の屋敷跡)

車通りの多い道から少し奥に入った住宅地のなかに碑があります。近くに小さな川が流れていて穏やかな時間を感じられる場所でした。かつてこのあたりに大江広元が邸宅を構えていたようです。

碑文には、大江氏についての説明文が書かれてありました。その中では、かつて広元の曽祖父に当たる大江匡房が源義家(八幡太郎)に兵法を教えていたことが記されているとのこと。広元が幕府の中心メンバーであり創設に大きく尽力した旨や、広元の四男・季光が相模国毛利荘を与えられた後に「毛利姓」を名乗るようになったとも記されているとのこと。
最後には、大江広元の時代から700年後にその末裔が倒幕運動に参加し「王政復古」を主導、天皇主権のため活躍した皮肉があったと記されていました。

アクセス

明石橋の交差点を曲がって滑川沿いに少し歩いていった先の住宅地の一角に碑があります。道も狭く車を置ける場所などもないので、鎌倉駅からバスで「十二所」駅まで行くのがベスト(コンビニのミニストップが目印)。静かな住宅地の中にあるので住民の方の迷惑にならないよう注意しましょう。

大江稲荷社

大江広元邸跡から交差点の場所まで戻り車通りを金沢八景方面に少し進んでいった先に大江広元公を祀る「大江稲荷社」があります。広元の姿を模した木像が”御神体”とされているそうで、現在は明王院に安置されているとのこと。
もともとは大江屋敷を見守る場所に鎮座していた屋敷神として崇められていたそうですが、現在の位置に移転させた跡も地元の人達に大切に守られ続けているそう。

2022年2月には大江広元を演じている栗原英雄さんが現地を訪れ大江稲荷社の初午祭にも参加されたようです。

お社をくぐりながら少し狭い階段を昇っていった先に赤い小さな祠があります。

アクセス

特に大きな看板があるわけでもないので、注意していないと気づかずに通り過ぎてしまう可能性大です(汗)。敷地は狭いですが、少しの間なら車1台分くらいは停車できそうでした。

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大江広元墓地(毛利季光・島津忠久の墓)

鎌倉には大江広元の墓とされる場所が2つ存在しているのですが、今回は法華堂跡近くにあるほうのお墓へ行ってきました。

ちなみにもう一箇所は明王院の裏山・胡桃山の頂上にある石塔だそうです。こちらはけっこう道のりがハードらしいということなので、時間的にも余裕がなかったことから行くのを断念してしまいました(苦笑)。こちらの石塔は「伝」ということなので大江広元のお墓であるかどうかは定かではないのかもしれません。

さて私達が尋ねた大江広元のお墓ですが、こちらは江戸時代に長州藩によって源頼朝の墓地からほど近い場所に建立されたと伝わっています。

北条義時の墓(法華堂)があったとされる敷地を通り抜けていくと小高い丘に続く2本の階段が見えてきます。

※伊豆にある北条義時のお墓レポはこちら

その左側の社が建っているほうの階段を昇っていった先に大江広元のお墓がありました。その左側には、広元の四男で「毛利姓」を継いだ季光のお墓があります。

広元さんのお墓の前には多くの花が沢山備えられていてとても華やかでした。でも四男さんのお墓がちょっと寂しいことに・・・。

毛利季光は父の広元の所領である毛利荘(現在の神奈川県厚木市)の地頭を任されたことから「毛利姓」を名乗ることになりました。主君である実朝が暗殺された後は出家しますが、承久の乱で北条泰時とともに戦い大きな武功を上げ安芸の国を与えられたことでそちらに移住したと伝わっています。
1247年に北条と三浦が対立した折は季光は三浦方に味方し(彼の妻は三浦泰村の妹だった)宝治合戦を戦いましたが敗北、源頼朝の法華堂で自害してしまいました・・・。

広元と季光の墓へ登る階段の手前には三浦一族の墓とされる小さな洞窟があります。

季光の四男である毛利経光は越後にいたため生き残り、その一族から後に有名になる毛利元就の誕生へと繋がっていくことになります。

大江広元と季光親子のお墓の隣には、薩摩島津氏の始祖とされる島津忠久のお墓があります(社の隣りにある階段を登った先にあります)。忠久は頼朝の庶子ではないかという噂もある人物で、その縁もあってか江戸時代に薩摩藩主の島津氏によって頼朝の墓を整備したとのこと。広元、季光、そして忠久の墓地もそれと同時期に整備したと思われます。

アクセス

源頼朝の墓地と一緒に広元さんたちのお墓にもお参りしていただきたいと思います。少し長い階段を登りますが、そんなにキツくはありません。

以上、『鎌倉殿の13人』を巡る紀行レポでした。時間の関係で訪れることができなかった場所も多いので、また機会があれば行ってみたいと思います。ここまで読んでいただきありがとうございました。

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