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NHK大河ドラマ『青天を衝け』第24回ネタバレ感想 パリの御一新

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約1か月間中断していた『青天を衝け』がようやく再開!!オリ〇ピッ〇も個人的には結局テレビ観戦盛り上がって楽しんだわけですがw、やっぱり大河ドラマのない日曜日はどこか落ち着きませんでした。なので、久しぶりに放送されて本当に嬉しかったです。

ただ、2週後にまた小休止になっちゃうんですけどね(汗)。

パリ編も突入したと思ったらもうクライマックスへ。渋沢栄一は時代が変換期を迎える一番大変な時期に日本にいませんでしたから、そのあたりをどう描いていくかというのが大きな注目点でもありました。実際に見た感想としては…これまでにない視点からの”明治維新”への混乱が非常に魅力的に描かれていたと思います。

一番面白いなと思ったのが、視聴者が当時の栄一(篤太夫)のリアルな不安を追体験するかのような気持ちでドラマを見るよう仕組まれていたこと。この脚本力、演出力はすごい!

以下、第24回を見て気になったシーンもろもろネタバレあり

これまでの『青天を衝け』感想レポ

青天を衝け
青天を衝け
2021年度NHK大河ドラマ『青天を衝け』の感想レビュー

『青天を衝け』第24回 パリの御一新

2021年08月15日(日)放送 NHKBSプレミアム 18:00~18:45 ほか

出演:吉沢亮、高良健吾、橋本愛、板垣李光人、岡田健史、田辺誠一、小林薫、ほか

あらすじ

篤太夫(吉沢 亮)や昭武(板垣李光人)らがパリで新年を祝う中、幕府から書状が届く。“慶喜(草彅 剛)が政を朝廷に返上した”との文面に一同大混乱をするが、篤太夫は昭武の留学費用を捻出すべく更なる節約策を講じる。そんな中、篤太夫はエラールに連れられ、証券取引所を案内される。債券の仕組みを教わり、一人一人の小さな力が合わさり、この世を変えられることを知り、新たな決意を抱く。その時、日本では、成一郎(高良健吾)、惇忠(田辺誠一)、平九郎(岡田健史)が、新政府軍と戦っていた。

<公式HPより引用>

前回放送のラストは、慶喜が「薩摩を討つべし!」という周囲の声に愕然とし戦への舵を切らざるを得なくなるという不穏な空気が漂い、パリの篤太夫たちも日本の情勢が不安定になっているということを知らされ胸騒ぎがしている…というところで終わりました。

それを受けての3週明けの最初のシーンはと言うと…、”渋沢家の餅つき風景”といった非常に平和的な一幕でちょっと拍子抜けww。栄一が家を出てからもう5年の歳月が経っているとのこと。血洗島に残っている面々からすれば、表の政治闘争はあまり関心がないって感じですかね。でも、渋沢家も蔵に泥棒が入る事件があったらしく(汗)、それはそれで不穏な出来事を経験していたようです。それにしても、惇忠兄ぃの餅つき姿は実にスマートでカッコよかったw。

そこへ日本に帰国していた杉浦愛蔵が訪ねてきました。篤太夫から家族のことを頼むと依頼されていた愛蔵はちゃんと約束を守ってくれたわけですが、渋沢家の面々からすれば突然お武家様がやってきて面喰ってしまう有様(笑)。愛蔵の名前を聞いた惇忠は「江戸で平九郎が世話になったという!」とピンと来た様子でしたが、え!?いつの間にそういうことになってたんだ!??とちょっとビックリw。もうそんな展開になってたのね。

パリの篤太夫からの手紙を届けに来たと告げる愛蔵は、千代の顔を見て「渋沢くんはお千代さんからの文を心待ちにしておりました」とナイスフォロー。篤太夫は千代から手紙が来ないことをずっと嘆いてましたからね。この一言を直接告げることで、彼女もついに返事を書かざるを得なくなるでしょう。
パリからの届け物のなかには立派な”フォトガラ”…つまり写真も入っていて、彼らはここで初めて篤太夫が仕えている徳川昭武(民部公子)の姿を認識することになりました。

これまたかなり再現率の高いお写真ではないですか!!

※本物の写真が掲載されているサイト参照

板垣李光人くんのなんと凛々しく眩しい貴公子っぷりよ!!渋沢家の面々がその写真を見て一斉に手を合わせる気持ち、よく分かるわ(笑)。

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そしてもう一つ添えられていたのが、断髪後の篤太夫の写真でした。ところが、千代はそれを一目見たとたんに衝撃を受けてしまいます。市郎右衛門やゑいさんたち他の渋沢家の面々には大変高評価だったわけですが、千代だけは「なんと浅ましい!!こんなもの誰にも見せられない…!」と辛辣な意見ww。
それを見た愛蔵は慌てて「パリではみんなその格好をしているから」と説得しますが、千代としては異人を嫌っていた栄一の記憶が色濃く残っているため、どうしてもそれと同じ姿になってしまった夫のことを受け止めることができません…。その気持ちはなんかよく分かるし、それだけ長い期間離れ離れになっているのだなと思うと切なくなってしまいました。

そんな千代を見て、市郎右衛門とゑいは「栄一は大和魂は決してなくしていないから」と励ましました。親としては、息子が元気でいてくれたらそれだけでもう胸いっぱいの心境でしょう。このあたりは微妙な感情のすれ違いみたいなところがある気がしますね。

それにしても、パリの篤太夫の写真も本物との再現率がとても高いですなぁ!

※本物の写真が掲載されているサイト参照

演じている吉沢亮くんがめっちゃ男前に写ってるのでちょっと違和感は拭えませんがw。

一方、千代が洋装姿の自分の写真を見て大きな失望感を抱いているとは露知らぬ篤太夫wは、慶応4年1868年1月2日、昭武を囲んでのささやかな新年会に出席し”シュワシュワしたブドウの酒”(シャンパンってやつですかねw)に舌鼓を打っていました。
たしかこの翌日に日本は大変な戦に突入することになるはずなのですが、篤太夫たちには未だにその空気は伝わってきていないわけで…なんだかちょっとゾワゾワした気持ちになってしまいました。

とその時、日本総領事のエラールが幕府からの御用状が届けにやって来る。その場は一気に緊張感に包まれるわけですが…

水戸藩士・菊地平八郎さんの髪型についつい目が行ってしまいちょっと吹き出してしまったwww。月代姿からバッサリ髪を切り落としたあと、微妙な姿にならざるを得なかった水戸藩士の皆様でしたが、ようやくその部分の髪が伸びてきたわけですね(笑)。もう少し伸びればシャンとしたヘアスタイルになりそうだけど、未だに紋付き袴姿を貫き通しているのできっと篤太夫たちと同じような七三ヘアにはしないだろうなと思いましたw。

それを手に取った栗本(横顔もロバート秋山くんにソックリww)は、その文章を読んで愕然とする。日本の現状がどうなっているのかハラハラしながら見守っていた篤太夫たちに告げられたその内容とは…、慶喜が政権を朝廷に返上…つまり、大政奉還を行ったという知らせでした。あの事件がパリに届くまで約3か月もかかっていたわけですね。

さらに篤太夫たちを驚愕させたのが、今後の政権は天敵であるはずの薩摩などと話し合いながら行っていくことになると書かれてあることでした。これはもう、彼らからしたら屈辱以外のなにものでもないわけで、到底受け入れられない内容。「そんなのデタラメに決まっている!!」と声が上がる気持ち、よく分かる…。

この場面、ドラマには登場していませんでしたが…ガイドブックには「栄一だけはそれが事実と受け止めてた」と書かれてあります。大きな視点で物事を見ることができた彼は、漠然とこういう未来が訪れることを予見していたのかもしれません。

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それから数日後、昭武は乗馬の訓練に付き添っていた篤太夫に「今、公儀が政を失ったとしたら私はどうなるのだろうか」と不安な胸の内を明かしました。

まだまだパリで学びたいことがたくさんあると本音を打ち明ける昭武の言葉を、篤太夫は神妙な面持ちで聞いていました。あんな切なそうな民部公子様の姿を見たら、篤太夫も「何とかして差し上げたい」という気持ちが沸き起こるだろうね…。

ちなみにこのシーン、雰囲気はパリの郊外といったのどかで素敵な風景が広がっていましたが…、実際は群馬県渋川市にある赤城自然公園で撮影されたとのことです。

未公開エリアでの撮影ということで、一般の人が立ち入れない場所だったからこその美しい自然の光景が 映し出されていたのかもしれませんね。

慶喜から「日本に有事があると知ってもみだりに動くな」と告げられていることから、篤太夫も昭武もなんとかパリで生活するしかない。とはいえ、日本が不安定な情勢であることは把握できていることから今後十分な送金は望めないことも分かっている。頼みは小栗上野介からの月5000ドルのみということで、篤太夫は更なる倹約に頭を悩ませてしまいました。

そこへ篤太夫が金周りに苦労していると察したエラールが訪ねてきて、パリの証券取引所に案内してくれました。中に入ると、大勢のフランス人がけたたましく何かを叫び続けるすごい光景が広がっていた。エラールによれば、それは債券(国債)を買う人々の集まりだという。

国債とは、国に金を貸し付けて期間に応じて利子がつくシステムだという。その利子は相場によって金に換えることもできるらしい。この時はまだピンとは来ていない様子の篤太夫でしたが、後にこの現場を目撃したことが彼に大きな影響を与えることになります。

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大政奉還を知らされた翌2月にも新たな御用状がパリに届く。そこには慶喜が薩摩との衝突を避けるために大阪へ引き上げた事情が書かれてありました。これもまた3か月遅れの情報なんだよなぁ…。大坂城には公儀の兵も集結しているとあり、篤太夫は成一郎もその中にいるのではないかという不安を抱きます。

しかし、栗本は断固としてその内容を信じようとしませんでした。今に幕府が逆賊である薩長を殲滅したという朗報が入ってくるに違いないとえらい剣幕です。実際に日本にいなければその当時の様子を肌で感じることはできなかったと思うので、栗本があくまでも御用状の中身を信用しないと否定し続ける気持ちはわかる気がしました…。
ただ、他の面々は栗本の言う通りの出来事が起こってほしいと思う反面、幕府が追い詰められている現実は本当にあるのではないかと大きな不安も渦巻いている様子でしたね…。ハッキリした情報が得られないこの時代、さぞかし心細い気持ちだっただろうなと思うと切なくなります。

その後自分の部屋に戻った篤太夫は御用状に添えられていた家族からの手紙に目を通していました。

平九郎からは「栄一が戻るまで文武に励みたいと思います」という生き生きとした内容が綴られていました。ずっと国の役に立ちたいとウズウズしてきただけに、渋沢家の養子となり江戸で働く機会を得ることができたことは彼にとって大きな喜びでもありました。その文を読んだ篤太夫も「よかった」と安堵の声を漏らします。が…、本当にそれがよかったのかどうか、後に苦悩することになるのではと思うと胸が痛みました(涙)。

惇忠からの文には、長七郎がようやく牢から出された旨が書かれてありました。しかし、過酷な牢獄暮らしだったことから長七郎は虚ろな日々を過ごしているとのことで、惇忠も兄として何もしてやれないことに心を痛めている様子。篤太夫はその内容に思わず言葉を失ってしまいました…。

母のゑいは、篤太夫からの文がとても嬉しかったと綴ってありました。家族も変わらず元気に暮らしていると知り頬を緩める篤太夫。ゑいさんらしい優しい字体で「くれぐれもお体大切にしてください」という文面が綴られていたシーンは胸が熱くなりました。まさに母の親としての愛情が余すところなく感じられる文でしたね。それを読んだ篤太夫が「孝行ができず申し訳ない」と思わず謝罪の気持ちを口にしてしまったのも印象的だった。

そして最後は待ちに待った千代からの文。懐かしい愛する妻の字に感激する篤太夫。ところが、読み進めていくと「お前様は以前とは変わってしまい、あまりにも浅ましく見るのも辛い」と予想外の辛辣な意見がツラツラと綴られているw。異国かぶれな姿はもう見たくないので、以前のような勇ましい姿に戻ってほしいと切々と訴える文章で締めくくられていました(史実らしい 汗)。
まさか良かれと思って撮影したパリスタイルの写真が、こうも酷評されるとは想像していなかったであろう篤太夫は苦笑いするしかない様子w。でも、そんな辛辣な文面はなおさら千代の姿を鮮明に思い出させるものでもありました。頭を掻きむしりながら「会いてぇなぁ…、会いてぇ…」と笑いながらも涙を浮かべる篤太夫がめちゃめちゃ切なくてグッときました。

髪型が乱れたシーンを見たときは「せっかくセットしたのに…」という邪推がちょっと過りましたがww、その後の徐々に涙目になっていく篤太夫を見ていたらそんな気持ちが吹っ飛んで泣けてしまった。吉沢亮くん、本当に気持ちのこもった良いお芝居をする。

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それから1か月後の3月、通訳を担当するカション神父「1月の初めに京都と大坂の間で戦があった」と書かれてあるニュースペーパー(新聞)を手に入れたと持ってきた。これと同時に同じ内容が記された御用状も届いていたため、それを読んだ栗本はついに「今までの知らせは偽りではなかったのだ」と信じざるを得なくなる。幕府の勝利を心底願っていただけに、目の前に突き付けられた現実はあまりにも残酷なものでした…。他の面々も不安が的中してしまったことで愕然とその場に立ち尽くすしかないのが切ない(涙)。

改めて御用状に目を通した篤太夫は、慶喜が尾張と越前の勧める政への参加を断って大坂へ向かったことや、正月が明けてすぐ(1月3日)に薩摩と戦闘状態に入ったことを改めて知るところとなる。世に言う、鳥羽伏見の戦いの勃発です。篤太夫たちが正月の祝賀会をしていた時期(翌日)に戦端が開かれてしまったことになりますね…。
昼夜問わずの戦の末に幕府軍は敗北を重ね撤退、さらに戦の最中であった6日には慶喜がわずかな者を連れ立って大坂を離れ江戸に戻ったということまで綴られていました…。

そして御用状の後半には、慶喜が「朝敵」の汚名を着せられたという衝撃的な内容が…。皆一様に大きなショックを受けるわけですが、中でも一番激しく動揺したのが水戸藩士の菊地平八郎でした。水戸出身の将軍・慶喜を慕う気持ちは誰よりも熱かったはず。その人が「朝敵」とされたことは身を切るほど辛かったに違いありません。
悔し涙を流し思わずその場で切腹する勢いとなった菊地を思い止まらせたのは、高松凌雲でした。

「落ち着け!この地で(腹を)捌いても、どうにもならぬ…!」

非常にシリアスなシーンではありましたが、凌雲先生の突然のバックハグ行動にはちょっとビックリしました(笑)。医者としての彼の優しさからの行動だというのは理解しているのですが、その抱きしめ方があまりにも強さと優しさを含んだものに見えて…「もしや二人は…?」という邪推が芽生えてしまいました(←コラww)。
凌雲先生は「もうパリにいるのは耐えられない」と帰国させてほしいと泣きついてきた水戸藩士たちに対しても「こちらにも良いところはたくさんあるからもう少し頑張ろう!」みたいに励ましてるシーンありましたよね。おそらく、パリメンバーのなかで一番水戸藩士たちに気持ちを寄せてくれていたのは彼だったと思いますよ。

きっと、パリの生活に馴染めないながらも昭武に仕える忠義心を貫きここまで耐えきった二人の水戸藩士のことを凌雲は気にかけ続けていたに違いない。だからこそのバックハグだよね、あれは。と、信じることにするw。

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同じころ、昭武の元には慶喜から大坂での顛末を説明した文が届けられていました。その日付は12月…、つまり、鳥羽伏見の戦いが勃発する数日前だったと思われる…。文には、日本の内輪で争っている場合ではないので大坂へ退くことにしたという慶喜の想いが綴られていました。そして最後にはパリでの留学を続けるようにとも…。

その文を読んで動揺を隠せない昭武は、訪ねてきた篤太夫に自分はどうするべきなのかという不安な気持ちを打ち明けました。 それに対し「誠を申せば全く解せぬことなので、諫める文を書いてはどうか」と提案する篤太夫でしたが、次第に沸々と自分の中に怒りの感情が沸き起こってくるのを感じた様子。驚く昭武の傍で、次から次へと不満の気持ちをぶちまけていきますw。

政権を朝廷に返上したのであれば、なぜ挙兵に踏み切ってしまったのか。戦の意思を持ったのならば、なぜ最後まで戦わなかったのか。この先”暗愚”だと罵られることを承知していながら、なぜ兵を置き去りにして一人だけ江戸に戻ってしまったのか。
特に彼が慶喜を許せないと思ったのは、大将という立場にありながらもわずかな者を連れて勝手に江戸へ引き返してしまったことでしょうね。「東照大権現様になんと申し開きなさるおつもりか!!」と悔しさのあまり怒りを露にする篤太夫。ここで家康さんが登場するかな・・・と過りましたが、ここは静観ということからか出番なしに終わりましたw。

あまりにもすごい剣幕を目の当たりにした昭武は、圧倒されたように「うむ、分かった」と諫める内容の文を書くことに同意します。でも、きっと昭武も篤太夫と同じような忸怩たる気持ちは抱いていたと思う…。

慶喜を諫める文を実際に綴ったのは篤太夫だったそうです。その時の下書きが現存しているのだとか。

そして4月、栗本鋤雲や高松凌雲といった主要メンバー数人が先に江戸へ帰還することになりました。去り際、凌雲は「民部公子はお腹が丈夫ではないから」と言って篤太夫に何日か分の薬を手渡します。最後まできめ細やかな心遣いが素敵ですね。

篤太夫はそんな凌雲のこの先の身の上を心配しますが、それでも凌雲は不安な気持ちを抱きながらも「この国に来られてよかった」と笑みを浮かべます。パリで医者としてあるべき姿を学べたことは彼にとって大きな財産となりました。篤太夫と最後に微笑み合うシーンはグッとくるものがあったなぁ…。本当にいい人だった。ただ水戸藩士の二人はまだ残るようだったので、そのことだけは気がかりだったと思うけどね(汗)。

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それからまた一月後の4月、篤太夫のもとに幕府軍として戦っていた成一郎からの文が届く。そこには、大坂の戦で負傷したものの何とか江戸へ戻れた様子が綴られてある。薩摩や長州の勢いは凄まじく、慶喜はどんな勅命も受け入れざるを得ない状況にあり、今は上野寛永寺に蟄居させられその命も危うい状況だという。
しかし成一郎は「上様は一度も尊王の大義に背いたことはない」と断言している。ずっと傍で仕えてきたからこそ思える心境なのでしょう。その点、篤太夫はもう長いこと慶喜から遠い距離にいることになりますから、彼の苦悩などを容易に感じることができず怒りの感情が沸き起こってしまった。この隔たりがなんだかすごくシビアだなぁと思いました。

成一郎は慶喜の汚名をそそぐため、旗本・御家人の同志で同盟を結び挽回の時を信じているという(彰義隊の結成あたりかな)。
手紙を読み終わった篤太夫は、成一郎や慶喜の想像を絶する苦悩を察し一人涙を流しました…。きっと、その場にいられない現実が悔しくてたまらなかったと思います。どうか無事でいてほしいと願うことしかできない自分…。当時の渋沢栄一も、おそらくこんな風に引き裂かれるような思いで涙を流していたに違いないと思うと本当に切なかったです(涙)。ここも吉沢くんの先生な表現力が素晴らしかった…!

それからしばらくして、幕府から各国に派遣されていた若い留学生が昭武の屋敷に大勢やってくることに。帰国の命令が出るまでは昭武の屋敷の広間で過ごすことになったとのことで、篤太夫は彼らのためにかいがいしく布団を並べてやっている。

ところが、その状況に太々しく「ここで!??ベッドは!?」と真っ先にケチをつけてくる若者がいました。

イギリスに留学していた林董三郎(のちの林董)です。彼の名前はどこかで聞いたことがあるぞと思ったら…、初代香川県知事になった人でした。明治以降は外交官として活躍する人物ですが、この当時はまだ意識高い系の生意気な青年だったようです(実際の董はどんな青年だったか定かではありませんが)。

ベッドでの生活に慣れてしまった董ら若い留学生は「床で寝かせるなんて、これじゃ豚扱いじゃないか!」と文句タラッタラ。篤太夫が苦労して帰れるように取り計らってくれたっていうのにこんな上から目線の態度取られるとは…腹立つわーーーー(笑)

と思ったら、篤太夫も黙っていませんでした。「いったいおぬしらは、今の御国許を何と思っておられるのだ!?」となにも分かっていない若者たちへの怒りを口にする。

「俺は、お前たちが喜望峰周りの帆船に乗せられるような惨めな想いをさせないよう取り計らってやった。それは可哀そうに思ったからやったわけじゃない、国のためだ!」

この当時はまだスエズ運河が完成していなかったため、日本への運搬はアフリカ大陸南端にある喜望峰を周る遠回りのルートを通るしかありませんでした。篤太夫はその荷物と一緒に留学生が運ばれるような惨めな想いをさせないよう奔走してくれたというわけです。

さらに篤太夫は国からの送金を期待できないなかで、今あるお金を節約に節約を重ねながらしか使えない現状(しかも民部公子のためのお金を切り崩しているという苦しい状況)も吐露。そんな苦しい状況のなかで留学生を国に戻すために奔走する羽目になったわけですから、「ベッドで寝かせろ」だの文句言われたんじゃ、なおさら腹も立つってもんですよ。お前らのためにやってるんじゃない、国の面子を守るためにやったんだと言いたくなる気持ちも分かる。

「ただ知識を多く得れば偉いとでも思っているのか!?公儀はこんな性根の腐った者を育てるためにわざわざ苦しい懐から学生を送ってきたのか!?だとしたら俺は公儀のため嘆く。大いに嘆くぞ…!ここが嫌ならすぐさま出て行け!!!」

鬼のような形相で生温い考えだった若い留学生たちを威嚇した篤太夫。この迫力にすっかり吞まれ言葉を失った彼らは、人が変わったように慌てて自分たちで布団を敷きに走るのでした。事情を把握していなかったとはいえ、上から目線で態度が尊大だった若い留学生たちにとってはいい薬になったでしょう。これは見ているこちらもスカっとしましたが、現代にもこういう意識高い系で上から目線の人っているよなぁ…と苦笑いしてしまったw。

ちなみに、林董三郎の隣にいたのは、平岡円四郎に目を掛けていた川路聖謨の孫にあたる川路太郎です。聖謨の顛末については、おそらく次回語られると思われます…。

篤太夫の只ならぬ様子が気になってその場を訪れていた水戸藩士の平八郎と三輪。「どんな柔らかいところで寝ていたとしても、臥薪嘗胆の心はあってしかるべきじゃないのか!?」と叫ぶ篤太夫の言葉を聞いた彼らは、少し意外そうな表情を浮かべていました。
これまではどんどん異国に染まっていく篤太夫に違和感を覚えることも多かったと思いますが、「臥薪嘗胆の心を捨てるべきではない」という彼の言葉を聞いてイメージが変わったのかもしれません。外見は変わっても、篤太夫は日本人として武士の魂をちゃんと宿していたのかって見直したところは大きかったのではないでしょうか。パリ生活終盤に、こういう平八郎たちの細かい描写があったのは個人的に嬉しかったです。

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1868年5月、日本では新政府に対する旧幕府軍の抵抗が未だに続いていました。武蔵国(今の埼玉県)の飯能では、戦い疲れた兵が必死に山道を進んでいる。その中には、武装した姿の成一郎、惇忠、そして平九郎の姿がありました…。その隊列に、一発の銃弾が撃ち込まれる。

そんな苛烈なシーンの直後に、パリでコーヒーにミルクを注ぐ篤太夫の姿が…(汗)。この激しい落差の演出にビックリ!!命の危機が迫る仲間たちと、不安な気持ちを抱きながらも安全な場所でコーヒーを入れている篤太夫の対比に何とも言えないゾワゾワ感が押し寄せてしまった(汗)。

昭武の部屋を訪れていた篤太夫はコーヒーに口をつけようとしますが、なかなか飲もうという気持ちにまで持っていくことができない。するとそこへ神妙な表情の山高が「新しき政府からの公文が届きました」と書状を私にやって来る。これまでは”幕府”からの文でしたが、今回は”新しき政府”からの文。それは、もう彼らの居場所である幕府が無くなってしまったことを意味している…。
そこに綴られていたのは、「御一新につき急ぎ日本へ戻るように」という命令だった。得体のしれない新しい政府の日本に帰らなければならないことに昭武は大きな不安を抱いたようでした。

エラールも篤太夫にフランス政府が昭武の帰国を促していることを告げる。慶喜は水戸に謹慎となっているので昭武に危害が及ぶようなことはないだろうと楽観視しているようでした。しかし、昭武は慶喜から「何があってもパリで学問を続けるように」とされていることから、篤太夫は「なんとか昭武がパリに留まり学問を続けられるように対処してほしい」と頼み込みます。その言葉に頷いてくれたエラールさん。それはおそらく、篤太夫のことを信頼していたからだろうね。

同じころ、平九郎はおていからの守り袋を見つめていました…。あの様子だと、大きな怪我を負ってしまったのではないだろうか…。気がかりです。

そして7月、昭武にさらなる悪い知らせが届いていました。水戸藩主の徳川慶篤が亡くなってしまったので、それに伴い昭武が水戸家を継ぐことが朝廷により決定されてしまったという。この衝撃的な知らせを告げる役目を担ったのが、水戸藩士の菊地平八郎でした…。知らされる方も、知らせる方も、あまりにも辛すぎる(涙)。

それを聞いた篤太夫は俄かに信じることができず「これは何かの謀に違いない!!」と憤る。山高は詳しい日本の状況が把握できずただ混乱するしかない。
そこへ、フランス公使を解任されて日本から戻ったロッシュを連れてエラールがやって来た。ロッシュは「御一新なんか無視してパリで学業に励むべきだ」と昭武を励まし促します。おそらく彼は新しくできた政府からぞんざいに扱われたのではないでしょうか(苦笑)。さらにロッシュは「今は会津が新政府に抵抗を続けて戦状態なので帰るのは危険だ」と必死に引き留めようとする。

ちょうど悲劇の会津戦争の時期なのか…。大河ドラマ『八重の桜』を思い出して泣ける(涙)。

しかし、昭武は観念したように「もう、帰ろう」と告げるのでした…。その覚悟の言葉を聞いた一同は、それ以上何も語ることができなかった。昭武は、このままパリで学問を続けることよりも水戸藩主としての責任を果たす道を選ばざるを得なかったんだろうな…。菊地平八郎たちがその想いを汲んでか涙目で歯を食いしばっている姿がさらに涙を誘いました(泣)。

「この国の方々に、心から感謝を申し上げる」

凛とした昭武の姿に、ロッシュやエラールたちもそれ以上引き留める言葉を告げることができず…、ただ彼の気持ちを尊重するしかありませんでした…。

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帰国前、篤太夫とパリの町を歩き「もうこの景色も見納めだな」と寂しげに呟く昭武…。徳川宗家は田安家の亀之助が継ぐことになったことから、彼はもう水戸家を継ぐしか道はない。

田安亀之助は1865年に3歳で田安家の当主となりました。ドラマでも描かれていましたが、家茂は15代将軍に亀之助を望んでいたものの当時まだ若すぎたため、慶喜が後を継ぐことになりました。
徳川宗家を継ぐことになった時、亀之助はまだ6歳。この時点で名前を「家達」と改めることになります。

昭武は篤太夫に「水戸へ帰るのが怖い」と初めてその本音を明かします。そして…

「日本に戻っても、私の傍にいてくれぬか?」

とまっすぐな眼差しで素直な気持ちを打ち明ける。まるでプロポーズのようなお言葉…!それほど彼の心は不安でいっぱいだったということですよね。それを打ち明けられる唯一の人が、篤太夫だったのでしょう…。
しかし、篤太夫はその想いに「YES」と応えることができませんでした…。昭武を今後も支えていきたいという気持ちはもちろんあったと思いますが、おそらく彼の中にはそれ以上にやりたいことが見つかってしまったのではないだろうか。

答えに窮し黙り込んでしまう篤太夫を目の当たりにした昭武は、少し苦笑いを浮かべながら彼から目をそらし静かに流れる川を見つめました。きっと、篤太夫の気持ちを察してしまったのだと思います。そんな昭武の後ろ姿を申し訳ないという想いで見つめるしかない篤太夫も切なかった(涙)。

帰国の準備に関してはエラールがかなり手伝ってくれたようです。パリにいる間色々と気にかけてくれていたエラールさん、本当にいい人で良かった。そんな彼に、篤太夫は感謝の気持ちを伝えました。それは、資金繰りに困っている時に”証券取引所”へ案内し”国債”や”社債”の仕組みについて教えてくれたことです。

あのあと篤太夫はいつの間にか国債と鉄道債を6万5千フランずつ購入していて…、帰国するにあたってそれを売ったところ、全部で600両の儲けを得ていたことが判明!!!つまり、購入していた株を売ったら今の価値でいう6000万円くらい儲けたということになります(驚)!!
どうやら「何かあった時のために避けておいたお金」を投資していたらしいw。いやぁ…、度胸ありますよねぇ、篤太夫。万が一買った債券が事業の失敗などで暴落してたら大損して大変なことになる可能性だってあったはず(汗)。運も味方に付けていたという意味で、渋沢栄一(篤太夫)のお金に対する嗅覚はすごいなと思ってしまったw。

600両儲けたことを聞いたエラールは驚きながらも「篤太夫が購入した日本のお金がフランスの鉄道事業の役に立った」と笑いました。今日のフランスの発展には渋沢栄一も一役買っていたのかと思うとなんだか感慨深いものがあります。

篤太夫は債券を購入して儲けることができたことももちろん喜んだと思いますが、彼がエラールに一番感謝したかったのは、債券…つまり、株を売り買いする仕組みについて教えてくれたことでした。それは「皆の小さき一滴一滴が流れを作り、皆が幸せになる」という篤太夫が理想としていたトレビアンな世界そのものだったのです。

皆が少しずつお金を出し合うことで大きな事業に着手することが可能になるという考え方は、当時の日本には取り入れられていない考え方でした。「小さな金が集まることでやがて大きな資本となり、事業が成功すれば貸した側にも配当金が配られる」というエラールの説明に、篤太夫は雷に打たれたかのような大きな衝撃と感動を受ける。

「一人が嬉しいのではなく、皆が幸せになる…!一人一人の力で世を変えることができる!…おかしれぇ!!これだ!!俺が探し求めてきたのはこれだ!!」

篤太夫の心の中には幼い頃に母から教えられてきた「皆が幸せになるのが一番いいんだよ」という言葉が常に根付いていました。そういう世の中にするには自分は何をすればいいのかということを、彼はこれまでの多くの経験のなかでずっと模索してきた。そのドンピシャな答えが、”株の売買”システムだったのです。
身分の関係もなく誰でも自由に大きなプロジェクトに参加できて、なおかつ事業が成功した暁には配当金ももらえてウィンウィンな関係を築けるという仕組みは、まさに目から鱗な世界に映ったに違いありません。

篤太夫はエラールに「異人は敵だ」と思っていた今までの考えを謝罪しますが、当のエラールさんにはその日本語の意味はあまり通じていなかった模様ww。ここは理解できなかったほうがよかったかもね(笑)。

篤太夫は少し苦笑いしながら「ここで得たことが日本で役に立つかどうかは分からない」と言いながらも、「どんなことになったとしても、日本のために尽くします」とフランス語でその決意を伝えました。力強い篤太夫の言葉に感激したエラールが「期待しています」と日本語で励ましてくれたシーンはとても感動的だったな…。今の日本があるのは、エラールさんが篤太夫に新しい世界を教えてくれたからともいえますよね。そう思うと、彼に対する感謝の気持ちでいっぱいになります。
篤太夫も親愛の情を込めて自らエラールをハグしにいきましたね。パリに来たばかりの頃のことを想うと信じられない行動です。異国の人への感情が大きく変化したという意味でも、彼がパリに来た意味は大きかったと思いました。

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それから数日後、昭武を出迎えるために水戸藩から井阪泉太郎服部潤次郎の2名がパリに派遣されてきました。井阪さん「もうパリでの生活は限界だから帰らせてほしい」と泣きながら懇願して帰っちゃった人でしたよね。あの場にはいなかったけどたぶん服部さんもそれに伴って帰国したのではと。それなのにもう一度渡仏してくるなんて…なんと熱い忠義心!!

パリに残った菊地平八郎三輪端蔵に久しぶりに再会した二人。会えなかった期間の様々なことが過っただろうね…(涙)。特に平八郎の目が涙で赤くなってたのが泣けたよ…。4人の間に何とも言えない感情がこみ上げウルウルしているタイミングで篤太夫がやって来ました。
井阪は篤太夫を見るなり「お主を斬ってでも民部公子を連れて帰るぞ!!」とメラメラと闘志を燃やし刀に手を置く戦闘態勢に入りました。彼から見たら、篤太夫は昭武を外国色に染めようと目論む悪人って感じに写っていたでしょうから、敵意を剥き出しにしてしまうのも分かる気がします(苦笑)。

しかし、篤太夫はそんな井阪たちに全くビビることなく…、それどころか「髷だ、髷だ~!」と爽やかな笑みを浮かべている。全く想定外の篤太夫の反応に「!?」となって固まってしまう井阪。するとその直後、もっと信じられない出来事が彼の身に起こることに。

「よく来た!はるばるよく来たな!!」

そう言ったかと思うと、篤太夫は思い切り井阪のことを抱きしめたのです。井阪とすればあまりにも予想外の出来事が身に降りかかり混乱状態。「気色悪い!!離せーー!!」とどうにかもがいてそこから逃れようとしますが、篤太夫はハグをしたまま彼から離れようとしませんでした…。

やがて井阪は篤太夫の胸の中の温もりを実感し涙ぐんでいく。それを見ていた服部の目にも涙…。そして、平八郎と三輪は感極まって嗚咽を漏らしていた…。

この篤太夫と水戸藩士のシーンは涙なくしては見れませんでした(泣)。まさか彼らとの間にこんな素敵なドラマが最後に残されていたとは!!
最初はお互いに身構えていた関係だったけど、知らず知らずの間にその壁が少しずつ剥がれていったように思います。井阪と服部はパリ生活に限界迎えて先に帰ってしまったけどw、最初の頃よりも敵対心は薄まっていたんじゃないかな。だから篤太夫に抱きしめられた時、彼に対する怒りの感情よりも、再会の懐かしさと…これまでの彼の苦労を思いやるような色んな気持ちが湧き上がってきたのではないかと。

そして平八郎さんと三輪さん。二人は一番パリに馴染めそうになかったのに(特に平八郎w)、最後の最後まで昭武の傍について護衛するという忠義を守り抜いたよね。何度も心折れかかったと思うけど、そのたびに奮い立たせてパリに居残ったその大和魂は賞賛に値します。
そんな彼らが、生意気な西洋かぶれの留学生たちを篤太夫が一喝した姿を見た出来事はとても大きかった。これまで海外の新しいものをどんどん吸収していく篤太夫に対する違和感をずっと持ち続けてきたと思いますが、あの時、初めて彼の心のなかに”武士の魂”がちゃんと息づいていることを実感し印象が変わったと思うんですよね。

そして、もしかしたら平八郎たちも抱きしめられたかのような感動が巡っていたのかもしれません。この時初めて篤太夫を”同志”と認める感情が芽生えたように見えました。「ここまでよく頑張った」「懐かしい日本へ帰れるぞ」、そんな篤太夫の心の声が彼らの胸に届いていたんじゃないだろうか。
一番コワモテだった平八郎が思わず嗚咽を漏らして泣いてしまった場面は特に涙腺が緩み、見ているこちらもボロ泣きしてしまった(涙)。このパリで培われた水戸藩士の皆さんとの絆、日本に戻ってさらに深めてほしいと切に願ってしまうシーンでもありました。

菊地平八郎を演じた町田悠宇くん、とても印象に残る俳優さんでした。役者をやる前は飛行機の整備士さんを経験されていたという経歴には驚き!そのほかのインタビューも実に興味深い。今後要チェックな方です。福岡を中心に活躍されているとのことですが、これを機に全国区でも頑張ってほしいですね。

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慶應4年、1868年8月30日、ついに篤太夫たちがパリを離れる日が訪れます。お世話になったアパルトマンの隣の家族が見送りに来てくれました。寂しげな顔で「Au revoir(さようなら)」と告げる女の子に歩み寄り、優しい笑顔で同じ言葉を告げる篤太夫の場面にまたまた涙が…(泣)。愛されてたんだね、篤太夫…。おそらくこの家族と再び会うことは訪れないのだろうなと思うと、なおさら切なくて泣けてしまった。

昭武のもとに集まった面々は、すっかり荷物もなくなり空っぽになった部屋を見つめ感傷に浸っていました。そこへ、昭武の家庭教師を務めたヴィレットが見送りにやって来て「インモルテル」という黄色い花束を手渡しました。

その花は菊の一種で、乾いた土地でも育つことから”不滅”という意味の「インモルテル」という名前がついたそうです。
ヴィレットさんは昭武の凛とした姿勢や勉学に励む態度、そして才能を高く評価していました。それだけに、もっと自分の手元で育てたいという気持ちが強かったと思います。あえて危険な状況の日本へ帰国する昭武へ「あなたは決して滅びない」という励ましの意味を込めてあの花を贈ったんだろうなと思うと切なくてジーンと来てしまいました(涙)。そんなヴィレットの気持ちを受け取った昭武は、流ちょうなフランス語で「ありがとう、さようなら」と万感の想いを伝えました…。

こうして昭武一行は日本へと帰国の途に就くのでした。最後に部屋を出た篤太夫がシルクハットを被り扉を閉めた所作は実に美しく思わず見とれてしまうレベル!こういった細かい動きも吉沢くん、本当に繊細に演じてくれて素晴らしいです。

ちなみに、篤太夫たちはパリから日本へ帰るまでにけっこうフランスの色んな所へ立ち寄っていたのだそう。

 この時の水戸藩士の皆様の反応がどうだったのかも気になるところです(笑)。

パリ編はこれで終了とのことですが…、時間があればあと2話くらい見たかったかも。それくらい面白い展開続きだったので。特に水戸の平八郎たちとの絆が近づいていくあたりはもっと見ていたかったなぁ。日本では接点がなくなっちゃいそうなのでなおさら(苦笑)。

次回は、今回手紙でしか語られなかった鳥羽伏見の戦いから上野戦争の悲劇までの出来事が描かれそうです。帰国した篤太夫には辛い知らせが待っているはず…。心して見ようと思います。

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