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毛利元就ゆかりの地巡りレポート -広島県安芸高田市-

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戦国時代に中国地方のほぼ全域を制覇した武将・毛利元就

元就生誕500年を迎えた1997年には中村橋之助(現・芝翫)さん主演で大河ドラマが放送されました。

私はこの大河ドラマが大好きだったのですが、特に少年時代(森田剛くんが演じていました)は何回も見ました。

元就が拠点としていた郡山城跡の近くにある郡山公園には、大河ドラマ放送を記念して中村橋之助(現・芝翫)さんが植えたという「もみじ」「さるすべり」の樹がありました。

訪ねた時の季節は真冬だったので枯れた状態でしたが(汗)秋には綺麗な紅葉の葉っぱが見られるんじゃないかなと思います。

毛利元就は現在の広島県安芸高田市で晩年を過ごしました。その史跡が数多く残されているということで何カ所か訪ねてきました。

毛利元就ゆかりの地巡り -広島県安芸高田市-

郡山城跡・毛利元就公火葬場伝承地

毛利元就が居城したとされる郡山城は、中国地方最大の山城と呼ばれていました。元就が支配する前の15世紀ころにはもう存在していたと考えられています。毛利輝元の時代に本拠地が広島城に移転しますが、郡山城もしばらく機能していました。しかし、1600年の関ケ原の合戦をきっかけに廃城へと追い込まれてしまいました。

地上からは山頂付近に掲げられた毛利の旗印を見ることができます。

郡山城へ向かうその少し手前に、毛利元就公火葬場伝承地がありました。

毛利元就は1571年6月14日に御里屋敷で75歳の生涯を閉じました。初七日に当たる20日に法要を営んだ後、この地で荼毘に附されたと伝わっています。石で囲まれたその場所には大きな栂の樹が植えてあったそうなのですが、昭和46年に枯れてしまったのだそう…。
火葬の場所というのはあくまでも「伝承」とのことなので本当にこの地で行われたのかは定かではないのかなと思いますが、元就の魂が宿っている気がして手を合わせてきました。

現在は小さな石碑と新しく植えられたと思われる大きな樹木が一本佇んでいます。

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毛利元就像・三矢の訓跡碑

郡山城の麓にある「安芸高田少年の家」の前に毛利元就公像がありました。なかなか立派で凛々しいお顔。目立つところにあるのですぐ分かると思います。

また、毛利元就で有名な逸話なのが『三矢の教訓』だと思います。1557年に元就が3人の子供(隆元・吉川元春・小早川隆景)に対して”一本だけの矢ではすぐに折れてしまうけれど、三本の矢が重なれば折ることが困難になるはずだ”と一族の結束を説いた文を書いたとされるもの。

※元就の三男・小早川隆景の広島の史跡レポ

現在は、元就が晩年を過ごしたとされる御里屋敷跡である「少年自然の家」の敷地内に碑が建てられています。裏から行く形にはなりますが、碑の傍までは自由に見学できるようになっていました。

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清神社

郡山ふもとにある清神社は、城が築かれる以前から存在していたとされる古い歴史のある場所です。1325年以降の棟札(建物の建築・修繕の記録)は全て完存しているし、ほかにも多くの歴史的資料が残されていることが確認されているとのこと。現在の社殿は1694年に建設されてたものだそう。広島県の重要文化財として登録されています。

毛利氏はこの神社を祈願所として崇拝していたそうです。現在ではサッカーJリーグの「サンフレッチェ広島」が毎年この場所で必勝祈願を行っているとのこと。

この神社に来て一番目を惹くのが、階段を上った先の社殿前にそびえている大きな杉の木です。

樹齢1000年を超える御神木が5本立ち並んでいて圧巻です。この樹木たちは毛利元就の姿を見ているんだろうなと思うと、なんだかとても感慨深いものがこみ上げてきました。

かつては6本立っていたとのことですが、1999年の台風によって倒木してしまったそう(汗)。

倒木してしまった御神木のうち厚さ30センチのところで切り出した部分が「神木殿」のなかで祀られていました。かなりの巨大な樹木だったことが一目瞭然。思わず手を合わせたくなるほど神々しいオーラを放っていました。
ちなみに、普段はその隣の社務所で「三本の矢」のお守りを販売しているとのこと。私たちが訪れたときは時間が少し遅かったので閉まってしまいましたが、神社入口の管理しているお宅が販売を行っているということでそこで購入させていただくことができました。

『三矢のお守り』はこの神社でしか買えないそうなので、興味がある方はぜひご購入を!

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毛利元就および一族の墓

郡山城の山麓に毛利元就とその一族のお墓に通じる入口があります。

毛利元就の三回忌にあたる天正元年に孫の輝元が洞春寺を創建。その敷地内に墓地が置かれたと伝わっています。洞春寺は明治2年より山口県の方に移設されました。

山道を少し登っていくと荘厳な雰囲気のなかまずは毛利一族の墓に行きつきました。

郡山城内・城下にあった一族の墓地は明治2年にこの場所にまとめて移葬されました。向かって一番右側の土が盛られている墓地には、郡山城初代城主・毛利元親から八代・豊元(元就祖父)が眠っているそうです。墓地の一番左側から・・・元就の兄・興元、興元の息子で跡継ぎになるはずだった幸松丸(9歳で早世…)、元就の長男の隆元の妻、毛利家先祖の順に墓石が並んでいるとのこと。正面からは見づらい感じでしたが、静かに手を合わせてきました。

さらにそこから少し登ったところに毛利元就の墓があります。建立された当時のままこの場所に元就は眠っているそうです。

墓所は前域と後域に分かれていて、前の方には寄進された灯篭が、その後ろに元就の位牌を納めた墓石が建っています。現在建っている墓石の後ろに白くなった樹木がありましたが、これは元就の墓標として植えられた「ハリイブキ」という木だそうです。めったにない珍しい木とのことですが、かなり昔に枯れてしまっていたとのことで、現在は倒れないように隣の樹に支えられる形になっているらしい。

元就の墓地と向かい合う形で、『百万一心』の碑が建っていました。文字は「一日一力一心」と読めるように刻まれているそうです。当時は城を立てる際に人柱を立てていたようですが、元就は「人命こそ第一」と説いて「百万一心」と刻んだ礎石を埋めたという逸話は有名です。

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毛利隆元の墓

毛利元就の長男・隆元は24歳で家督を継ぎ、元就の中国地方制圧の大きな助けとなりました(大河ドラマでは橋之助さんより年上の上川隆也さんが演じて当時話題になっていました)。ところが、尼子氏討伐のために出雲に陣を構えた元就の救援に向かう途中で毛利家家臣・和智誠春の接待を受けた翌朝、突然病に倒れそのまま帰らぬ人となってしまいます。暗殺説も考えられる出来事です…。

和智誠春と隆元の身の回りを世話していた赤川元保はその後元就から嫌疑を向けられ、誅殺されてしまったとのこと。未だに隆元が毒殺されてしまったのかは謎のままとのことで真相は闇の中です。

墓石に刻まれている「大江」は、源頼朝の重臣だった大江広元の祖先が毛利姓を名乗ったことに由来していることを意味しているそうです。

隆元の死後、元就や弟たちによって菩提寺として常栄寺が建立されました。

かつて寺があった場所は今は広い敷地となっています(寺は山口県に移設されました)。寺には寺には正親町天皇直筆の「常栄広刹禅寺」の額が掲げられていたそうです。

父の元就・一族の墓地から少し離れた場所に隆元の墓地はありますが、距離的には近いです。

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