こちらの記事は、GW鹿児島『西郷どん』旅の記録の続きになります。
大河ドラマ『西郷どん』ゆかりの地レポ一覧
大河ドラマ『西郷どん』感想一覧
前回に引き続き、西郷隆盛(吉之助)ゆかりの地についてのレポートになります。
第8弾では、西南戦争と西郷隆盛に関連する史跡についてご紹介します。
大河ドラマ『西郷どん』ではかなり後半に登場してくるエピソードになるので、ネタバレ的なものを知りたくない方はご注意ください。
『西郷どん』紀行 -西郷隆盛と西南戦争-
私学校跡
征韓論に敗れた西郷(朝鮮に開国を求めるために使節として向かおうとしたものの、大久保らの激しい反対に遭い断念せざるを得なくなりました)は鹿児島に帰郷します。
鹿児島に戻った西郷が士族のために設立したのが私学校です。かつてこの場所に私学校の正門がありました。
当時、武士の特権を奪われた士族たちは明治政府に大きな不満を抱いていました。
そのため、表向きの目的は若者たちの育成としていましたが、実情は士族の不満を抑えるための受け皿として設立されたようです。
しかし、あるきっかけで私学校の生徒が政府の火薬庫を攻撃。さらには西郷暗殺計画の疑惑も持ち上がったことで西南戦争へと突き進んでしまいました。
私学校の生徒たちによる暴発は西郷も予想外だったようで、たいそう狼狽えたとのこと。
西南戦争勃発の折、私学校のあたりはかなりの激戦地となりました。
現在も、政府軍から放たれた無数の砲弾跡が私学校の石壁に生々しく残っています😱。
アクセス
西郷隆盛洞窟
西郷隆盛が西南戦争末期、最後の5日間を過ごした洞窟の一部が現在も残っています。
西郷は私学校の幹部たち(桐野利秋・村田新八など)とここに籠り、軍の指揮を執っていたのだとか。しかし、西郷軍300に対して新政府軍は4万・・・とても勝ち目のある状態ではありませんでした。
柵の外から近付いて見てみると…穴の入り口は狭くて少し驚きました。現在奥行きは崩落によってほとんどなくなっていますが、当時は3.6メートルくらいあったそうです。
それにしても狭い!!西郷たちはここに追い詰められるまでの苦境を強いられていたんだなと思うと胸が痛みました…。
洞窟前にあった西郷像。こんな感じで苦境の中でもどっしり構えていたのでしょうか。
明治10年9月24日早朝4時に政府軍の総攻撃が開始されたのを機に、西郷たちは洞窟を抜け出したそうです。この時の西郷の出で立ちは、三番目の妻イト(ドラマでは黒木華さんが演じています)が縫ってひっそりと持参した縞の単衣姿だったとのこと…。西郷も、仲間たちも、そしてイトも、死を覚悟したうえの脱出であったことが偲ばれます😢。
ここを出てから約300メートルのところで西郷に銃弾が命中してしまいました…。
アクセス
駐車場は洞窟横のお土産屋さんがベストとのことですが、私たちは鶴丸城あたりの駐車場に車を止めて徒歩で向かいました。歩道らしい歩道がなくなるカーブもあるので注意が必要ですが、周辺を周るには歩いた方がいいかもしれません。
ちなみにお土産屋さん方面にある洞窟は資料館とのことで、西郷さんが籠っていたものではありません。私たちはむしろそちらの方には行かなかったので資料館があることに気が付きませんでした😅。
敬天愛人の石碑
西郷洞窟から西郷終焉の地へ向かう途中にJR鹿児島本線のトンネルがあります。その上部をよく見てみると・・・
『敬天愛人』という文字が刻まれていました。
『敬天愛人』とは、西郷隆盛が沖永良部島に流されたときに会得した思想であると言われています。大まかな意味としては
”天を敬い、他人を愛せよ”
ということで。この思想を会得して以来、生涯座右の銘として心に刻んでいた西郷。お土産屋さんにも『敬天愛人』と書かれたグッズがたくさん見受けられました。大河ドラマの中にも印象的な場面として出てくるのではないでしょうか。
この周辺には可愛い「まちめぐりバス」が走っていました。
アクセス
ただ歩いていると見落としがちなので、線路が出てきたら注視してみましょう。
西郷隆盛終焉の地
西郷は洞窟を出てから約300メートルの地点で被弾してしまいます。銃弾は腰と大腿部(太ももあたり)を貫き、それ以上進軍することができなくなってしまったそうです😢。
その時に西郷が別府晋介に告げた
「晋どん、もうここらでよか」
という覚悟の言葉は有名ですよね。大河ドラマ『西郷どん』のナレーションの最後に「今宵はここらで、よかろうかい」と西田敏行さんが語っているのは、おそらくこの言葉を意識して組み込んだものなんじゃないかなと思います。
動けなくなった西郷は覚悟を決め、皇居のある東側の方角を向いて手を合わせ・・・別府晋介の介錯によって49年の生涯を閉じました。
まさにこの場所で西郷隆盛が命を絶ったのかと思うと…、なんとも言えない切なさが押し寄せてきます…😢。
西郷は私学校の生徒たちが暴発した時から覚悟を決めていたでしょうね…。西南戦争へと突入する折には「おはんらにやった命」と語ったとのことですから、生きることには執着していなかったのではないでしょうか。
月照さんと入水したことがおそらくいつまでも彼の中で楔のように消えない傷として残っていたと思います。それだけに、自分の命を役に立てる場所を求め続けていたのかもしれません。
そう思うと、この西南戦争で命を捧げたことは、西郷隆盛(吉之助)自身にとっては本望だったかもしれないですね。
介錯を行った別府晋介もその後すぐに自刃、西郷の切腹を見届けた桐野利秋や村田新八らも後を追うように新政府軍に突撃して命を落としました。
大河ドラマでは戦に出ることを怖がっていたあの村田新八が…と思うと、なんか大河でその場面見たら泣いちゃいそうです😭。
アクセス
西郷洞窟から歩いてだいたい12-3分のところで、階段を上がった先に碑が建っています。
西南戦争の時の薩摩郡本営跡(ドン広場)も近くにあったのですが、今回は時間の関係で行かれませんでした。本営を置いたときには300人しか残っていなかったそうです。
ちなみに「ドン広場」の名前の由来は、正午の時報に利用された大砲があったからなんだとか。なんともダイナミックな話です。
西郷さん本人に纏わる史跡巡りレポでした(南洲墓地については次回以降で)。西郷さんとかかわりの深かった人たちについてはまた次の記事で報告します。
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